クルマとミュージックの融合史 前編(カーラジオ誕生からクラリオンガール)
この記事は、blogos(2022年5月でサービス終了)に掲載された「カーオーディオの文化史」から加筆したものです。
■もうひとつの歴史としての"車内音楽史"
かつての若者たちは、車を所有したがった。ひとつに恋人とのデートという目的があり、そのムードを盛り上げる目的として音楽が存在したのだ。
車内リスニング音楽は、いまだ通史として語られることのない、"もうひとつのポピュラー音楽"である。例えば、八代亜紀から工藤静香、マルシアへと受け継がれる一連のディーヴァたちの系譜がある。音楽の分野とは無縁。だが、長距離トラックのドライバーたちに聞かれてきた音楽としての共通性はある。長距離輸送が本格化した時代に、ラジオ(参照1)やカセットテープ(または8トラカセット)と結びついて生まれたドメスティックな文化については、その産業やメディアとの結びつきを踏まえることなく、分析は不可能だ。しかも、カーラジオ、カーオーディオの普及が大前提となるが、そこへの分析は、十分にはされていない。
【参照1 トラックメーカーが協賛していたラジオ番組】
■カーとラジオはいかに融合したのか
「Car radio 流れる せつなすぎるバラードが 友だちのライン こわしたの」*1
*1(日本語歌詞、及川眠子。オリジナルはカイリー・ミノーグ『Turn It Into Love』だが歌詞の中身は無関係)」
Winkの『愛が止まらない』の冒頭歌詞。この8小節で、そこが車内であること、音楽が流れていること、さらには恋愛がはじまろうとしている瞬間であることが示される。「カーラジオ」だけでもかなりの部分が蔦w流。ポップミュージックの歌詞において、「カーラジオ」の頻出回数は特筆すべきものがある。
- <別表主要「カーラジオ」が歌詞に登場するヒット曲>
『スローバラード』RCサクセション(1976)
『甘い予感』アン・ルイス
『ラストショー』浜田省吾(1981)
『さよならは八月のララバイ』吉川晃司(1984)
『Broken Sunset』菊池桃子(1986)
『昭和』長渕剛(1989)
『あした』中島みゆき(1989)
『SUN SHOWER』島田奈美(1991)
『恋人と別れる50の方法』池田聡(1994)
『Happy Endで始めよう』大瀧詠一(1997)
クルマもラジオも"メディア"である。
”人間の機能を拡張する機械”がメディアと定義するなら、人間の足の機能を拡張し、移動をアシストする自動機械がクルマ。一方、耳の機能を拡張し、長距離の情報伝達を可能にしたのがラジオである。
このまったく別個のメディアは、19世紀に成立し、20世紀に発展。そして、1930年代のアメリカで、カーラジオとして融合した。"カー"と"ラジオ"のマリアージュがもたらした影響、効用について、われら日本人、いや人類はまだ、ぼんやりとしか認識してない。
■カーラジオからカセットテープへ
国内のカーオーディオの歴史は、1951年に発売された帝国電波なる新興の企業が日野ルノーの乗用車に標準搭載用に開発した「ル・パリジャン」という小型ラジオに始まっている。「日本初の純正カーラジオ」。当時はまだ国産の自動車メーカーが、自国の技術で丸ごと一台の自動車を生産できるようになるか、ならないか瀬戸際の時代。カーラジオも、まだハイグレードな車種にのみに搭載されるものだった。そしえt、1960年代になると、家庭用テレビが一般に普及し始め、お茶の間のメディアの主力の座はテレビに代わる。ラジオにとっても、転換期。ラジオは、主戦場をお茶の間からマイカーや、若者の個室に移行させることになる。
ドライブ、デート、車内音楽という3つの要素が本格的に結びついた時期は、大衆車が普及し、安価となったカーオーディオが登場する1970年代前半のこと。
日本では恋愛結婚の件数がお見合い結婚の件数を抜いた時期と重なっている。カーオーディオの普及によって車内空間と音楽は切り離せないものとなった。言い換えると、"自由恋愛"が発生するために必要な舞台装置。家と家の結婚から個人と個人の結婚へ。かつては、家父長制のもとで育まれるべきものだった恋愛も、個人の車内空間で行われるものへと変化するのだ。
国産カーラジオメーカーの帝国電波は、60年代になるとカセットテープを使ったカーオーディオの販売を始める。当初は、カートリッジ式の8トラカセットが車載オーディオの主役に躍り出る可能性もあった。扱いやすさ、頑丈さ、値段の安さ、音質という優位があった"8トラ"は、元々、カーステレオでの利用を想定されて開発されたものだ。エンドレス再生の仕様もクルマ向けだった。だが、一方で早送りや巻き戻しの機能がないという弱点を抱えていた。8トラは、のちに業務用カラオケ用として定着するが、カーオーディオの世界ではスタンダードの座におさまることはなかった。
現在もよく知られるカセットテープ(コンパクトカセット)は、1964年にオランダのフィリップス社が商品として発売し、のちに技術情報を無償公開されたことで普及する方式。一旦は廃れかけたが、近年、世界的に復活を遂げている。
当初、音質が音楽向きでないとされていたコンパクトカセットだが、日本のメーカーの参入もあり、録音時間、音質、耐久性、価格面の改良が進む。1970年代にレコードやラジオの音を手軽に複製できる装置として普及。このカセットテープの普及は、ティーンエイジャーと音楽の間を取り持った。つまり、限られたおこづかいのなかで、多くの音楽に触れる機会、それを増やすきっかけとなったのだ。
カーラジオは、個人の空間に公共的なラジオ放送を流すための装置だった。だがカセットテープの時代になって、個人的趣味としての空間の要素がつよくなる。
■クラリオンガールの時代
かつてのグラビアアイドルの時代に活躍した”クラリオンガール”たちを覚えているだろうか。かとうれいこ、大河内志保、立河宜子、原千晶といった平成初期のグラビアアイドルたちは、皆クラリオンのキャンペーンガールの出身。クラリオンは、彼女たちの存在によって知名度が上がったわけだが、このクラリオンの1970年の社名変更以前の社名は帝国電波、つまり先ほどまでカーラジオや8トラカセットのメーカーとして紹介してきた会社である。
1975年にグランプリを受賞した初代はクラリオンガールがアグネス・ラムだった。彼女は、グラビアアイドルの元祖と呼ばれる存在。そして、その後も、1980年代に烏丸せつこ、宮崎ますみ、蓮舫らがクラリオンのキャンペーンガールの出身者だ。どの名前にぴんとくるかは世代によって(もしくは支持政党によって)違うかもしれない。グラビアアイドルの登竜門として知られるコンテストが、カーオーディオメーカーによって主催されていた。
ちなみに、クラリオンのビジネスは、1990年代後半を機に、カーオーディオからカーナビゲーションメーカーへと移行していった。カーナビの音声ガイドにおいて「クラリオンガールによる彼女調」の音声ガイドが売りになった(1996年『モノ・マガジン』1996年7−2号)。
なぜ、カーオーディオ、カーナビのメーカーが、長きに渡り、グラビアアイドルのオーディションを主催していたか。明言されたわけではないが、明白に、ドライブで隣に乗せたい相手をイメージして選ばれるものだったのだ。このことは、クルマとデートと音楽の関係を考える上で、外せない要素である。2000年代に一旦、クラリオンガールのコンテストは「メディアデビューを目標とし音楽を愛する女性」という名目に変更される。そして、終了は2006年。クラリオンが会社として他社に吸収、これを機とした廃止である。
(後編へ続く)