「モヒート」と「レクサス」から考える高度資本主義社会 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

 春樹作品で取り上げられたクラシックの作品が、AMAZONの在庫やCDショップの店頭から消失し、急遽再発されるなど、春樹初のブームが繰り返している。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。この長編小説で気になった2つの要素が、「モヒート」と「レクサス」である。

 『色彩を〜』の主人公・多崎つくると木元沙羅が東京・恵比寿のバーでデートするときに飲んでいるのは、「薄いハイボール」と「モヒート」である。モヒートが日本でブームになったのは、2011年。この年、サッポロビールと業務提携したラム酒メーカーのバカルディ・ジャパンは、ラムを使ったカクテルのモヒートを流行させるというアイデアに目を付けた。バーやレストランなどでモヒートをメニューに加える提案、レシピの提供などを行い、その普及のためのPRを展開した。

 先行事例に2008年にサントリーが「サントリー角瓶」の拡販のためのハイボールブームがある。サントリーは、テレビCMだけでなく、ソーシャルメディアを活用、それ外にも契約店のメニューにハイボールを第第的に展開することで、一旦は完全に消えたと思われたハイボールを復活させたのだ。バカルディのモヒートキャンペーンも同様に成功した。それが2011年のこと。

 この小説の主人公たちが生きるのは、「最も巨額の資本を投資するものが最も有効な情報を手にし、最も有効な利益を得る」というルールに支えられた「高度資本主義社会」である。資本投下と回収によるシステム。ゴージャスなホテルや国際的な高級コールガール組織からデュラン・デュランまでが同じシステムが運営され、なんでも経費で落ちる社会のこと。そんな「高度資本主義社会」は春樹用語。出典は、バブル時代以前の日本を舞台にした1988年刊行の小説『ダンス・ダンス・ダンス』である。

『色彩を〜』の主人公つくると沙羅が「薄いハイボール」と「モヒート」を飲む。彼らは、酒類メーカーの広告戦略にまんまと乗っている。「最も巨額の資本を投資するものが最も有効な情報を手にし、最も有効な利益を得る」という春樹が定義した社会をまさに実行する主人公たち。ちなみに『ダンス〜』では、主人公の「僕」や「ユミヨシさん」は札幌で「ウォッカソーダ」や「ブラディー・マリー」を飲み、ハワイで「マティーニ」や「ピナコラーダ」や「ジン・トニック」を飲んでいた。春樹作品にお酒はつきものである。

ただし、1988年当時の「高度資本主義社会」の定義のある部分が間違いだったことを現代のぼくらは気がついている。

 この小説では「この巨大な蟻塚のような高度資本主義社会にあっては仕事をみつけるのはさほど困難な作業ではない」と言い切られていたが、それが高度資本主義社会であるなら、日本社会は明らかに後退した。この小説の主人公は、軽めの文章を大量生産する文筆業者だ。彼は、自分の仕事のことを「文化的雪かき」と皮肉を込めて呼ぶ。だが現代の物書きは、数ヶ月働いただけで1ヶ月仕事をしないで遊んで暮らせることはない。それともっとも重要なのは、何でも経費で落ちたのは、資本主義が高度化したからではなかった。当時は単に景気がよかったのだ。

 とはいえ、消費社会化の段階変化をシニカルに書くことについて、村上春樹よりもうまい作家はそうはいない(双璧は、ある時期までの村上龍だった)。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』においては、「レクサス」という文化記号がその役割を果たしている。

 本作の登場人物「アオ」こと青海悦夫は、名古屋でレクサスの販売主任の仕事をしている。レクサスは、元々トヨタが1988年(まさに『ダンス〜』が書かれた年)に海外向けラグジュアリークラスカーであるセルシオを輸出する際に用いたブランド名である。レクサスにおいては、トヨタの名が前面に出ていない。の意図的にそうしている。そして、そのレクサスがBMWメルセデスに比べると値頃で高性能という評判が定着すると、今度は逆輸入という形で、日本市場に投入された。日本でレクサスの販売が始まったのは、2005年のこと。

 アオの勤めるショールームを訪ねたつくるは、いろいろと会話をして最後に「レクサス」の言葉の意味を尋ねる。「よく人にきかれるんだが、意味はまったくない。ただの造語だよ。ニューヨークの広告代理店がトヨタの依頼を受けてこしらえたんだ。いかにも高級そうで、意味ありげで、響きの良い言葉ということで」
 経済コラムニストのトーマス・フリードマンには『レクサスとオリーブの木』というグローバリゼーションを主題にした著作がある。この中で、彼はレクサスを「冷戦システムに取って代わる国際システム」=グローバル化の象徴と見なしている。フリードマンが見たのは、300台を超えるロボットが1日300台のレクサスを製造する工場だ。そこで、「材料を運んでフロアを走り回るトラックさせもロボット化されていて、進路に人間の存在を感知すると『ビー、ビー、ビー』と警告音を発する」という光景が描写される。最先端の技術が集結した工場では、人間が邪魔者とされるのだ。そんなシステムの象徴として「レクサス」が登場する。フリードマンは、レクサスは「わたしたちがより高い生活水準を追求するのに不可欠な、急速に成長を遂げる世界市場、金融機関、コンピュータ技術のすべてを象徴している」と言う。「レクサス」はひとことでいうと「高度資本主義社会っぽい」のである。

 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の中にもいくつかのクルマが登場する。俳優の五反田くんは、海に沈めても保険が下りるから何の問題もないマセラティに乗っていた。その対極に置かれるのは、主人公の愛車で、目立たない実用的なスバルだった。一九八〇年代までの日本車の特徴と言えば、故障知らずで低燃費で低価格。つまりは機能的なクルマの代名詞が日本車だったのだ。春樹流に言えば「親密な感じがする」スバルに代表するのクルマが日本車である(その後の『騎士団長殺し』ではスバル・フォレスターが邪悪案存在として描かれてしまうのだけど)。

 トヨタがつくるレクサスは親密な感じではない。レクサスのブランディング担当者によれば「商品に付帯する機能とは『別な価値』をお客様に提供していること」(http://www.jsae.or.jp/~dat1/mr/motor20/mr20042013.pdf)だという。現代においては、機能一辺倒の自動車を作っているだけではコモディティ化(日用品化)し、人件費の安い国の自動車メーカーに負けてしまう。「やれやれ」。これも「高度資本主義社会」の一つの形態である。

 モヒート話に戻る。この作品においてモヒートはさして重要ではないが、少なくともこの物語の年代特定を助けてくれている。この物語の現在の年代をモヒートブームの2011年と推理する。このモヒート年代測定に従うと、舞台が翌年の2012年の可能性はあっても、2010年という可能性は低い。仮に2011年を基準点にするなら、多崎つくるの生年は、1974年度になる。そして彼が仲間からひどい仕打ちを受け、人生に変化が生じた大学2年生の夏休みは、1995年の可能性が高い。

 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、2011年の現在から、自身の身に起こった出来事の真相を知るために、1995年への「巡礼」を行うというもの。言うまでもないが、この2つの年とは、阪神淡路大震災東日本大震災の二つの出来事が起きた年。19世紀の初頭の怪奇小説、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、厳密に1892から数年の出来事を、ヨーロッパ各地を舞台にして描きながら、であるなら書かれていて然るべき当時の彼の地の話題を一身に集めていたフランス革命、及びその後のナポレオン戦争に一切触れない。不自然なまでにそれを避けたのは、それらが著者にとっての最大の関心事だからだ。メアリー・シェリーは、ヨーロッパで封建制度が次々崩壊していくという事態を、寓話として小説にしたのだ。

 震災についてはスルーしながら、2011年と1995年年を描く。著者の関心事にかんしては指摘するまでもないだろう。そして、もうひとつ。本作は、村上春樹作品の中では珍しく、団塊ジュニア世代が主人公だ。終盤近くには、主人公が新宿駅を訪れ、オウム真理教による地下鉄サリン事件について回想する場面がある。団塊世代にとっての学生運動(及び、反体制的な心情)と、団塊ジュニア世代にとってのオウム真理教事件。どちらも「高度資本主義社会」を受け入れきれない人々による反発と敗北だった。村上春樹が直接描くのではなく、ずっと関心を持ち続けてきたことは、変わっていない。