未来予測小説を読む。堺屋太一『平成三十年』

平成三十年 (上) (朝日文庫)

平成三十年 (下) (朝日文庫)

 何も変わらない未来を予測したフィクション。これほど希望のないディストピアが他にあるだろうか。
 例えば、小松左京の『日本沈没』では、未曾有の大災害に日本が巻き込まれる様が描かれた。日本人が一致団結して立ち向かうこの小説で小松は絶望の中での希望を描いた。だが、これから取り上げる小説『平成三十年』は、大災害や戦争といった大状況は描かれない。代わりに描かれるのは、何も起こらない近未来。平穏無事な20年を過ごした日本の未来とは一体いかなるものなのだろうか。
 主人公の木下和夫は、情報産業省に務める官僚である。43歳、妻と17歳の娘とともに東京の都心・青山の公務員宿舎で暮らしている。青山というと都心の商業地域及び高級住宅街のイメージが強いが、未来の青山は、「新虎赤青」と呼ばれるアジア系移民が多い地域になっている。ディスカウントストアやパチンコ店、風俗店なども存在している。
 情産官僚である和夫は、貿易に関する数字を付き合わせた会議に出席する。日々の会議の描写からは、日本経済の苦境が伝わってくる。
 日本は既に貿易赤字国になって久しい。資源価格が「資源危機」を期に高騰し、「品質過剰」な日本のものづくりは競争力を失ってしまったのだ。国内消費も落ち込んでいる。少子高齢化が進んだこと、さらに高い消費税率の煽りもあり、全体の消費が押し下げられてしまっている。
 日曜の朝、妻にはゴルフに行くと告げて家を出た和夫は、宿舎の玄関で携帯端末をコントロールして駐車場の車を呼び出す。「車の方が自動的に迎えに来る」仕組みになっている。車は駐車場の充電施設でプラグ充電も可能なハイブリッドカーである。和夫が向かった先は、両親の住む郊外のニュータウン。役所勤めゆえ忙しく、日頃両親に接する機会もないので、雨で中止になったゴルフの代わりに顔を見せに来たのである。
 両親が住む川崎インターからクルマで15分の郊外ニュータウンのマンションには、人や車の動きがない。父親は、ここが寂れてがらんどうの「元ニュータウン」になってしまったことをなげく。かつて懸命に働き、手に入れたマイホームだったが、いまはゴーストタウンに等しい。
 ここに描かれる日本は、現実の今の日本とほぼ変わらない世界である。実は、この小説が新聞連載されていたのは、1997年6月1日から1998年7月26日にかけて(単行本刊行は少し間を置いた2002年)。つまり本作は20年前に書かれた20年後、つまり現代を描いた近未来フィクションなのだ。
 当然、現代に生きる立場として、この小説の答え合わせをしたくなる。本作品の著者は、元通産官僚、経済企画庁長官も務めた堺屋太一である。堺屋の未来予測を当たり外れで論じるなら、かなりのところ当たっている。
 大きく外した部分は一箇所。長期デフレを予測していないところだ(小説内では、物価も賃金も3倍に上昇)。これは土台無茶な指摘。現在の20年デフレは、どんな経済学者でも予測はできない歴史的異常事態である。また、本書の予測のハズレを指摘したところで、それもまた小説の本質とは離れる。むしろ読み込むべきは、堺屋が踏み込んで書いた未来の細部である。
 この世界では、不況によって病院の倒産閉業が増えたため、その経営保護のため新規参入が厳しく規制されている。職にありつけない医者も多いが、医師は国家の元で庇護され補助金が与えられている。「医療減反」政策である。既得権化した医師の平均年齢は64歳。彼らは最新医療に対する理解もなく、新薬についての知識も持たない。国内の製薬業界は衰退してしまった。新薬を開発しても、医師たちがそれを購入しないためである。
 悪しき官僚制度、保護政策が産業を死に追い詰めようとしている社会。堺屋が描く近未来(2017〜2018年)とはそういう性質のもの。作者本人は「こうあってほしくないが、最もありそうな未来像」という呼び方をしている。つまりはディストピアである。
 あらためて、簡単にあらすじを説明しておく。主人公は、官僚の和夫だが物語の軸になるのはベンチャー企業出身の改革派大臣織田だ。織田が和夫ら優秀な官僚を巻き込み、日本的な官僚機構そのものにメスを入れる大改革に邁進する。
 織田の鶴の一声で誕生する官僚制度改革のための機構「日本改革会議」が発足する。ただそれを構成するメンバーの平均年齢は、70・3歳。ディストピア! この改革運動は、小説終盤に内側から崩壊していく。
 いちいちキッチュ(悪趣味)。そこが読みどころだ。
 例えば「パソエン」。「パソエン」は、カラオケの次に流行しているデジタルエンターテイメント機器として登場する。ヘッドホン型端末と全身の動きを読みとるセンサーを取り付け、有名スポーツ選手やフラメンコダンサーなどになりきる遊びだ。マスコミの目が光る近未来では、赤坂の料亭での芸者遊びなどはもってのほかになっており、官僚たちはこの「パソエン」接待を楽しんでいる。さらに「パソエン」は、日本の知的財産分野での輸出品目の筆頭商品でもある。
 もうひとつが「Jポスト」。郵便局は公社化され「Jポスト」という名になっている(民営化まではしていないので、現実が先行している)。過疎化が進んだ山間地域では、このJポストが、日常品の販売配達から宅配便まであらゆるユニバーサルサービスを請け負う。つまりは何でも屋。ただし、ここでで働く多くは高齢者。人々は高齢者に重いモノを持たせることにも慣れてしまっている。
 これら「パソエン」「Jポスト」のネーミング、さらには、この世界での人びと生活そのものまで含めてキッチュだ。官僚がパソエンに興じる様などは醜悪ですらある。
 この辺りが意図的な醜悪さ(風刺、批評性)なのか、そうではなく統計データに忠実な未来予測の結果なのか、判別は難しい。むしろ、その紙一重の部分こそがおもしろさだ。
 本小説は、決して”冴えた小説”ではない。描かれているのは、”冴えない国”の”冴えない未来”だ。それゆえ、現代のこの国のキッチュな戯画として成立しているのだ。

 

 初出:本の雑誌2018年