速水健朗プロフィール

速水健朗(はやみずけんろう)

職業、ライター。
主なジャンルは、都市論、メディア論、書評など。ラジオ、TOKYO FMTOKYO SLOW NEWS』(月〜木 夜20:00〜21:00)パーソナリティ。

 

 

 

1995年 (ちくま新書)

1995年 (ちくま新書)

 
東京どこに住む? 住所格差と人生格差 (朝日新書)

東京どこに住む? 住所格差と人生格差 (朝日新書)

  • 作者:速水健朗
  • 発売日: 2016/05/13
  • メディア: 新書
 
東京β: 更新され続ける都市の物語 (単行本)

東京β: 更新され続ける都市の物語 (単行本)

  • 作者:速水 健朗
  • 発売日: 2016/04/26
  • メディア: 単行本
 

 

 

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「モヒート」と「レクサス」から考える高度資本主義社会 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

 春樹作品で取り上げられたクラシックの作品が、AMAZONの在庫やCDショップの店頭から消失し、急遽再発されるなど、春樹初のブームが繰り返している。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。この長編小説で気になった2つの要素が、「モヒート」と「レクサス」である。

 『色彩を〜』の主人公・多崎つくると木元沙羅が東京・恵比寿のバーでデートするときに飲んでいるのは、「薄いハイボール」と「モヒート」である。モヒートが日本でブームになったのは、2011年。この年、サッポロビールと業務提携したラム酒メーカーのバカルディ・ジャパンは、ラムを使ったカクテルのモヒートを流行させるというアイデアに目を付けた。バーやレストランなどでモヒートをメニューに加える提案、レシピの提供などを行い、その普及のためのPRを展開した。

 先行事例に2008年にサントリーが「サントリー角瓶」の拡販のためのハイボールブームがある。サントリーは、テレビCMだけでなく、ソーシャルメディアを活用、それ外にも契約店のメニューにハイボールを第第的に展開することで、一旦は完全に消えたと思われたハイボールを復活させたのだ。バカルディのモヒートキャンペーンも同様に成功した。それが2011年のこと。

 この小説の主人公たちが生きるのは、「最も巨額の資本を投資するものが最も有効な情報を手にし、最も有効な利益を得る」というルールに支えられた「高度資本主義社会」である。資本投下と回収によるシステム。ゴージャスなホテルや国際的な高級コールガール組織からデュラン・デュランまでが同じシステムが運営され、なんでも経費で落ちる社会のこと。そんな「高度資本主義社会」は春樹用語。出典は、バブル時代以前の日本を舞台にした1988年刊行の小説『ダンス・ダンス・ダンス』である。

『色彩を〜』の主人公つくると沙羅が「薄いハイボール」と「モヒート」を飲む。彼らは、酒類メーカーの広告戦略にまんまと乗っている。「最も巨額の資本を投資するものが最も有効な情報を手にし、最も有効な利益を得る」という春樹が定義した社会をまさに実行する主人公たち。ちなみに『ダンス〜』では、主人公の「僕」や「ユミヨシさん」は札幌で「ウォッカソーダ」や「ブラディー・マリー」を飲み、ハワイで「マティーニ」や「ピナコラーダ」や「ジン・トニック」を飲んでいた。春樹作品にお酒はつきものである。

ただし、1988年当時の「高度資本主義社会」の定義のある部分が間違いだったことを現代のぼくらは気がついている。

 この小説では「この巨大な蟻塚のような高度資本主義社会にあっては仕事をみつけるのはさほど困難な作業ではない」と言い切られていたが、それが高度資本主義社会であるなら、日本社会は明らかに後退した。この小説の主人公は、軽めの文章を大量生産する文筆業者だ。彼は、自分の仕事のことを「文化的雪かき」と皮肉を込めて呼ぶ。だが現代の物書きは、数ヶ月働いただけで1ヶ月仕事をしないで遊んで暮らせることはない。それともっとも重要なのは、何でも経費で落ちたのは、資本主義が高度化したからではなかった。当時は単に景気がよかったのだ。

 とはいえ、消費社会化の段階変化をシニカルに書くことについて、村上春樹よりもうまい作家はそうはいない(双璧は、ある時期までの村上龍だった)。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』においては、「レクサス」という文化記号がその役割を果たしている。

 本作の登場人物「アオ」こと青海悦夫は、名古屋でレクサスの販売主任の仕事をしている。レクサスは、元々トヨタが1988年(まさに『ダンス〜』が書かれた年)に海外向けラグジュアリークラスカーであるセルシオを輸出する際に用いたブランド名である。レクサスにおいては、トヨタの名が前面に出ていない。の意図的にそうしている。そして、そのレクサスがBMWメルセデスに比べると値頃で高性能という評判が定着すると、今度は逆輸入という形で、日本市場に投入された。日本でレクサスの販売が始まったのは、2005年のこと。

 アオの勤めるショールームを訪ねたつくるは、いろいろと会話をして最後に「レクサス」の言葉の意味を尋ねる。「よく人にきかれるんだが、意味はまったくない。ただの造語だよ。ニューヨークの広告代理店がトヨタの依頼を受けてこしらえたんだ。いかにも高級そうで、意味ありげで、響きの良い言葉ということで」
 経済コラムニストのトーマス・フリードマンには『レクサスとオリーブの木』というグローバリゼーションを主題にした著作がある。この中で、彼はレクサスを「冷戦システムに取って代わる国際システム」=グローバル化の象徴と見なしている。フリードマンが見たのは、300台を超えるロボットが1日300台のレクサスを製造する工場だ。そこで、「材料を運んでフロアを走り回るトラックさせもロボット化されていて、進路に人間の存在を感知すると『ビー、ビー、ビー』と警告音を発する」という光景が描写される。最先端の技術が集結した工場では、人間が邪魔者とされるのだ。そんなシステムの象徴として「レクサス」が登場する。フリードマンは、レクサスは「わたしたちがより高い生活水準を追求するのに不可欠な、急速に成長を遂げる世界市場、金融機関、コンピュータ技術のすべてを象徴している」と言う。「レクサス」はひとことでいうと「高度資本主義社会っぽい」のである。

 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の中にもいくつかのクルマが登場する。俳優の五反田くんは、海に沈めても保険が下りるから何の問題もないマセラティに乗っていた。その対極に置かれるのは、主人公の愛車で、目立たない実用的なスバルだった。一九八〇年代までの日本車の特徴と言えば、故障知らずで低燃費で低価格。つまりは機能的なクルマの代名詞が日本車だったのだ。春樹流に言えば「親密な感じがする」スバルに代表するのクルマが日本車である(その後の『騎士団長殺し』ではスバル・フォレスターが邪悪案存在として描かれてしまうのだけど)。

 トヨタがつくるレクサスは親密な感じではない。レクサスのブランディング担当者によれば「商品に付帯する機能とは『別な価値』をお客様に提供していること」(http://www.jsae.or.jp/~dat1/mr/motor20/mr20042013.pdf)だという。現代においては、機能一辺倒の自動車を作っているだけではコモディティ化(日用品化)し、人件費の安い国の自動車メーカーに負けてしまう。「やれやれ」。これも「高度資本主義社会」の一つの形態である。

 モヒート話に戻る。この作品においてモヒートはさして重要ではないが、少なくともこの物語の年代特定を助けてくれている。この物語の現在の年代をモヒートブームの2011年と推理する。このモヒート年代測定に従うと、舞台が翌年の2012年の可能性はあっても、2010年という可能性は低い。仮に2011年を基準点にするなら、多崎つくるの生年は、1974年度になる。そして彼が仲間からひどい仕打ちを受け、人生に変化が生じた大学2年生の夏休みは、1995年の可能性が高い。

 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、2011年の現在から、自身の身に起こった出来事の真相を知るために、1995年への「巡礼」を行うというもの。言うまでもないが、この2つの年とは、阪神淡路大震災東日本大震災の二つの出来事が起きた年。19世紀の初頭の怪奇小説、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、厳密に1892から数年の出来事を、ヨーロッパ各地を舞台にして描きながら、であるなら書かれていて然るべき当時の彼の地の話題を一身に集めていたフランス革命、及びその後のナポレオン戦争に一切触れない。不自然なまでにそれを避けたのは、それらが著者にとっての最大の関心事だからだ。メアリー・シェリーは、ヨーロッパで封建制度が次々崩壊していくという事態を、寓話として小説にしたのだ。

 震災についてはスルーしながら、2011年と1995年年を描く。著者の関心事にかんしては指摘するまでもないだろう。そして、もうひとつ。本作は、村上春樹作品の中では珍しく、団塊ジュニア世代が主人公だ。終盤近くには、主人公が新宿駅を訪れ、オウム真理教による地下鉄サリン事件について回想する場面がある。団塊世代にとっての学生運動(及び、反体制的な心情)と、団塊ジュニア世代にとってのオウム真理教事件。どちらも「高度資本主義社会」を受け入れきれない人々による反発と敗北だった。村上春樹が直接描くのではなく、ずっと関心を持ち続けてきたことは、変わっていない。

21世紀版”レッツゲットフィジカル”。サブスクリプション時代の所有と自由

 2015年、世界の音楽産業においてデジタルの売り上げがフィジカルのそれを上回ったという。こんな言い回しで意味は伝わるだろうか? CDの売り上げをネット配信が追い越した。それ自体は、驚くべきことでもない。むしろ音楽CDを”フィジカル”と呼ぶのだということが気になる。


 ストリーミングやダウンロードといった”物質”を伴わない音楽再生の手法が主流になりつつある音楽市場で、CDはいつしかフィジカル、つまり身体を伴うメディアと呼ばれるようになっていた。”フィジカル”という言葉を使うことへの違和感とは何だろう。「同僚がメンタルやられちゃってさ」という会話と違って「うちの夫がフィジカルやられちゃったのよ」という言い方は、日常会話っぽくないのだ。わざわざといったニュアンスが付いてくる。


 ”フィジカル”や”物質”に脚光が当たった時代があった。オリビア・ニュートン=ジョンは、自らレオタードに身を包み、エアロビクスダンスを披露したMVをつくり「フィジカルを体得しましょう」と歌った。マドンナは『マテリアル・ガール』という曲でブレイク。物質の女の子というのは直訳だが、現金払いの相手が理想の相手と歌う割り切った女の子のイメージだ。オリビアで始まり、マドンナが引き継いだ80年代のイメージは、資本主義のきらびやかなイメージそのものだった。そんな時代からしばらく経って、9・11の同時多発テロが起こり、リーマンションが起こった。いや、そういったきっかけもあっただろうが、もっと大きな時代の流れの中で、モノに執着しない価値観が広まりつつある。


 反物質というのは言いすぎだが、例えば、シンプルライフ、オーガニックライフ、断捨離ブーム、これらは日米それぞれの差異はあれど、どれもがモノから逃れるという共通点を持った現象である。最新型のクルマを買うよりも、家で手作りのピクルスを漬けていることがぜいたくだと思い始めている人々がいるのだ、いましているのは、かつてはモノがぜいたくだった時代があったという話ではない。かつては、モノを手に入れることが自由を示すことに他ならなかったという話である。


 鈴木正文さんという僕の尊敬する編集者がいる。元々自動車雑誌の『NAVI』の編集者で、現在は『GQ』の編集長だ。テレビなどにもよく出ている。正論を正面から言う半ズボンをはいているあの人といえばピンとくるのではないか。


 そのスズキさんは、いつも高価な服を着て、モーガンなどの飛び切り上等なクルマに乗っているのだが、彼は同時に共産主義者である。いまでも革命によって世界が共産主義者化することが正しいと信じている。ぜいたくの愛好者でありながら共産主義者。傍からは一見矛盾するが、スズキさんの中に矛盾はない。むしろ、誰しもがぜいたくな消費の恩恵に預かることができる世界に胸を張っている。平等な社会は、世界同時革命によってもたらされることはなかった一方、さまざまなモノが大量生産などによって絶対的に安くなることで、実質的に社会はフラットになった。モノを持つことが、労働者の自由を示すことというのはそういう意味合いにおいてである。


 スズキさんが、さまざまな高級車に乗りながらも同時に何度も乗り継いでいるクルマがある。シトロエン2CV。このクルマは、1968年のパリ五月革命のフィルムに登場する。2CVは、スズキさんにとっては自由と革命の象徴のような存在なのだ。


 このご時世、2CVを維持するのはたいへんである。故障もするし、最新型の自動車よりも燃費も悪い。そもそも、新車だろうが骨董車だろうが駐車場の料金は同じなのだ。かつては自由の象徴だったとは言え、今となっては不自由極まりない代物だろう。ヴィンテージカーは、フィジカルの固まりである。実際、スズキさんがいまも2CVを所有しているかは知らない。そう、現代において人がモノを手放すほうに、より自由を感じつつあるのは、理にかなっている。モノを持つことは、そこから制限を受けることを意味する。マイホームでの定住よりも軽やかに移動可能な人生の方が自由。フレキシブルに自分の場所を見つけて動ける人のほうが、仕事での成功可能性が高い時代でもある。


 2018年11月。トヨタが、2019年に自動車のサブスクリプション(定額利用料支払い)方式でのサービス開始を発表した。サブスクリプション方式とは、最新のITサービスがこぞって導入しているビジネスモデルである。音楽定額サービスのSpotifyに動画配信のNetflix。これらは、データはすべてクラウド(サーバ)上に保管されていて、端末には保存されないという特徴を持ったサービスである。デジタルデータですら所有しない時代。モノの所有が持つ意味合いも変わっていく。


 自動車のサブスクリプションといった場合、一定額を毎月払えば、クルマに乗り放題ということになるようだ。具体的には、サービス契約者は、メンテナンスの費用を支払うことなくクルマが利用でき好きなタイミングで好きな車種に乗り換えることができるのだ。クルマの所有にこだわる人たちがいなくなるわけではない。ただそれだけではもう商売は難しい時代になるということだ。
 デジタルの対義語は、かつてはアナログだったがいまはフィジカルになった。もちろん、クルマの市場でフィジカルがデジタルに抜かれるという事態は基本的に起こりえない。人の身体を運ぶ乗り物がクルマである以上、フィジカルな存在であることは放棄できないからだ。
 だが、今のクルマはコンピュータによる安全技術によって制御されているという意味においても、これからネットへの常時接続、双方向の情報交換に伴ったサービスの普及していくという意味においても、クルマはフィジカルとデジタルのハイブリッドのモノになっている。現状、フィジカル70パーセント、デジタル20パーセントといった具合だろうか。その割合は、急速に変化するだろう。
 今一度、オリビアに立ち返る。あの時代、彼女があれを歌ったのは(本人にはもちろん意図はないとは言え)絶妙なタイミングだった。ベトナム戦争ウォーターゲート事件アメリカの人々は政府への不信や陰謀論に揺さぶられていたそして、ヒッピー、オカルト、ニューエイジ精神主義的なものが万円していた。そこで彼女はあの歌を歌ったのである。
 所有が絶対のものではなくなり、フィジカルの対義語が変化していく時代においてこのオリビアのメッセージはまた別の意味合いを持ち始めるだろう。この原題、ぜいたくについて考える上での大きなヒントを持つのが彼女の歌の歌詞だ。おそらく数年後、このメッセージが僕らの心にかつてなく強く響きわたるはずだ。「フィジカルを体得しましょう。フィジカルを得ましょう」。

(初出 AERA STYLE MAGAZINE Vol.41 2018 WINTER)

publications.asahi.com

 

 

飛行機とフットボール

※『フットボールサミット』誌連載「すべての男の子の名前はジネディーヌ」第4回(2014年掲載分)

■飛行機事故で死ぬロック歌手とサッカー選手


バディ・ホリーが死んでロックンロールは終わったのさ」
 と言ったのは、ジョン・ミルナーである。1972年のことだ。ミルナーは映画『アメリカン・グラフィティ』に登場するキャラクターだが。
 1950年代に活躍したロックンローラーのホリーを殺したのは、飛行機だ。彼は、同じくロックンローラーのリッチー・ヴァレンス、そしてバンドのメンバーとともにツアーに出ている最中だった。本来は、バスでのツアーだった。だがスケジュールは厳しく、彼らは体力の限界に達していた。ホリーの着替え用の下着がなくなり、いらついていたという説もある。彼らが、遅れていたスケジュールを挽回するようにチャーターしたビーチクラフト社の4人乗り単発機ボナンザ35は、アイオワ州のトウモロコシ畑に墜落。ホリーらは命を絶った。
 20世紀の偉大な発明、いや人類史における偉大な発明のベストテンには、必ず飛行機の発明という項目が含まれる。だが飛行機の発明は、単に人が重力に逆らって空を飛べるようになっただけでなく、同時に長距離輸送の発明であり、軍事的にも大きな意味を持つ航空写真の発明であり、戦略爆撃、そして飛行機事故という大量死の発明でもあった。
 ドン・マクリーンは、『アメリカン・パイ』という曲の中で、この1959年2月3日のことを「音楽が死んだ日」(The Day the Music Died)と歌った。この歌は、マドンナもカバーしている。
 飛行機事故で死んだミュージシャンはたくさんいる。グレン・ミラー、オーティス・レディング、レイナード・スキナードの主要メンバー、坂本九、ジョン・デンバー、スティービー・レイボーン


Don McLean - American Pie (Good quality)

 

そして、サッカー選手もまた、飛行機事故によって死んでいる。1949年、アリタリア航空のACトリノの選手を乗せたチャーター便が墜落した「スペルガの悲劇」。1993年にザンビア空軍の輸送機が、ガボンの首都リーブルヴィルの空港を離陸直後に墜落した事故では、ザンビア代表選手全員が死亡した。ザンビアは、この悲劇を乗り越え、19年後の2012年に、ガボンで開催されたアフリカネイションズカップで初優勝を遂げる。この大会で決勝進出を決めたガボン代表は、リーブルヴィルの海岸で、事故の追悼を行い、決勝での勝利を誓ったという。
 今回のテーマは、飛行機とサッカーである。

ミュンヘンの悲劇マンチェスターユナイテッド


 サッカー史上最悪の悲劇とされるのが、1958年2月6日の西ドイツのミュンヘン、リーム空港で起こった航空機事故だ。
 マンチェスター・ユナイテッドは、レッドスター・ベオグラードとのチャンピオンズカップの試合を3対3で引き分け、準決勝進出を決めたばかりだった。この試合に出場したボビー・チャールトンは、前半に3点取ったものの、凍り付いたピッチでの試合に手こずり、後半に3失点を喰らってしまったとこの試合を振り返る。
 その帰りのチャーター機は、給油のためにミュンヘンに立ち寄った。この日のミュンヘンは大雪だった。事故機の写真には、大雪で埋もれる大型プロペラ機墜落機の姿が映っている。2度の離陸に失敗したユナイテッドのチャーター機は、3度目の離陸を試みた際にフェンスに激突した。これによってユナイテッドの選手8名、スタッフ3名、他にも同乗していたジャーナリストたちの命が失われる。また、このチームの監督だったバスビーも重傷を負った。
 大雪にもかかわらず、無理な離陸を試みた理由は、チームがスケジュールを強行させたためだ。当時のイングランドのサッカー協会は、ユナイテッドが海外のカップ戦に参加することを快く思っていなかった。国内リーグの日程を優先させたかった協会と、その合間を縫ってチャンピオンカップに参戦したユナイテッドの仲はよくなかったのだ。
 ユナイテッドの選手を乗せたチャーター機は、そんな無茶なスケジュールを遵守するために、飛び立たざるを得なかった。バディ・ホリーたちがスケジュールのため、本来バスだったツアーを飛行機に変更したのと同じである。強行日程の遂行が悲劇を生んだのだ。
 ちょうどこの原稿を書いている間に、こんなニュースも飛び込んできた。「ミュンヘンの悲劇」から生還した元主将のビル・フォルケス氏が81歳で死去したという。フォルケスが、真っ二つに折れてあちこち炎上する機内から生存者を運び出す救助活動を行った英雄である。それは、やはり事故の生還者であるチャールトンが、証言している。チャールトンは、事故後に機外に放り出され、15分ほど気を失っていたという。
 飛行機事故でバディ・ホリーが死んで、ロックンロールは終わったかも知れないが、ユナイテッドは終わらなかった。この年のチャンピオンカップを制するはずだったユナイテッドは、チャールトン、フォルケスらを中心に10年かけてチームを立て直し、1968年にその夢を果たすことになる。

■胸スポンサーと業界の変遷

 こうした悲劇を乗り越えた現代においては、サッカーチームと航空会社の関係性は、より深いものになっている。国境を越えたグローバルなビジネスである航空会社が、国境を越えた知名度を持つ人気サッカークラブのスポンサーになり、宣伝に利用しようというのは、至極当たり前のことなのだ。
 サッカーにもっとも力を入れているのは、アーセナルやACミランパリサンジェルマンといった世界の有名サッカークラブのユニフォームの胸スポンサー契約を結んでいるUAEのドバイを本拠地とする航空会社であるエミレーツ航空だ。エミレーツ航空は、世界最大の豪華旅客機A380を総計一〇〇機体以上注文するなど、豪勢なことで知られ、創業は1985年とまだ新しいが、すでに世界最大の輸送能力を持つ航空会社に成長した。
 一方、マンチェスターシティのユニフォームの胸スポンサーであるエティハド航空は、ドバイと同じUAEのアブダビを本拠地とする飛行機会社だ。これに、カタール航空を加えた中東の3大航空会社は、裕福な国家の援助を背に、航空業界の規制緩和によって自由化された(「オープンスカイ」政策)世界の空を制しようとしている。
 朝日新聞の稲垣康介編集委員は、胸スポンサーにかんして、面白い記事を書いている。それは、「経済のグローバル化で、有名サッカークラブの胸スポンサーは時代を映し出す鏡になった。トレンドの最先端で競争をが激しく、資金も潤沢な業界はどこか」という中身の記事である。
 この記事によると、かつて強かったのは日本の家電メーカー。マンチェスター・ユナイテッドといえば、昔はシャープのロゴを胸に付けていた。エリック・カントナがユナイテッドの背番号7を付けていた時代である。
 1990年代の初頭。セリエAダイジェスト以前の時代だ。テレビ東京が海外サッカーの情報番組として、マンチェスター・ユナイテッドの試合をダイジェストで放送するのが精一杯という時代。日本の海外サッカーファンと言えば、みなユナイテッドファンだった。
 カントナをグーグル画像検索すると、シャープの胸スポンサーの写真ばかりが並ぶ。稲垣委員の記事によると、「HITACHI」「JVC」「SONY」「Panasonic」「NEC」「OKI」など、「グローバル戦略に乗り出す日本の電機メーカー」が海外の強豪サッカーチームのユニフォームをスポンサードしていたという。確かにそうだった。
 それがベッカムとユナイテッドで画像検索をかけると、まだ彼が髪が長くて子どもっぽい時代の写真には「SHARP」の文字が、髪を短くして精悍な感じになってからは「vodafon」の文字が刻まれている。
 ユナイテッドは、1999年でシャープとの18年間のスポンサー契約を終了させると、今度は携帯電話キャリアボーダフォンと契約を結んだのだ。この携帯電話会社は、シャープの3倍の契約金を払ったという。同じ時代、バイエルンミュンヘンは、ドイツテレコム、レアル・マドリードは、ドイツのシーメンスだったという。
 家電メーカーから携帯電話会社へ。お金を持っている業種は変遷した。そして現代は、中東の航空会社である。考えてみれば、サッカーチームの胸にスポンサードするのに航空会社は適任だ。

バルサとユナイテッドのメンバー出演CM


 ちなみにエミレーツは、今期からレアルマドリードの胸スポンサーの契約を交わした。また、カタール航空は、総額1億3800万ユーロという高額を支払い、バルセロナの胸スポンサーの座を得ている。
 つまり、現在のエル・クラシコは、中東の航空会社の代理戦争の場と化したのだ。
 バルセロナのスポンサーとなったカタール航空が製作した、バルセロナのメンバーを用いたCMが話題になっている。
 これは、カタール航空の飛行機がバルセロナ諸島という架空の国に降り立つという趣向のもの。ツーリストに扮するのはネイマールで、彼のパスポートに判子を押す入国審理官はピケ。イニエスタは街の壁画を描く職人(ペンキ屋の作業着がかわいい)で、バルサカラーでペイントされたタクシーを運転するのはOBのギャリー・リネカーだ。プジョルはこの国のマンガのキャラクターとして、ポスターになっており、メッシはなぜかダンス教室のインストラクター。
 こうしたCMで思い出すのは、2010年にトルコ航空がつくったCMである。
 アンデルセンやエブラ、ファビオとラファエルの双子らが機内でボールを蹴って遊んでいる。見せ場は、ベルバトフの足技だ。そして、調子に乗ったルーニーが、強く蹴ってしまったボールの向かう先には、ボビー・チャールトンが読書をしている。
 ボールはぶつかるすんでのところで、ファン・デルサールが大きな手でブロックする(デ・ヘアでなくてよかった!)。ふう、ひと安心。こうした遊び心のある企画はおもしろいが、人気選手が全員使えるわけではない。契約更新が迫った選手の場合、CMが流れる頃には移籍でいなくなるというリスクもある。このユナイテッドのCMもたかだか3年前だが、すでに、いなくなった選手も数名いる。

 

■空を飛べないオランダ人


 ちょっとおどろくのは、このCMの最後のオチで使われるのが、ボビー・チャールトンであるという部分だ。これが、アレックス・ファーガソンではなかった理由も気になるが、それ以上に、航空機事故の被害者であるチャールトンが飛行機に乗って平然と読書をしているという内容の航空機会社のCMに出演することに抵抗はなかったのだろうか。
 彼は飛行機嫌いになることなく、事故を克服したのだろう。
 飛行機嫌いのサッカー選手として有名なのは、元オランダ代表のデニス・ベルカンプ。彼は、アーセナル所属時代、アウェー戦やカップ戦でチームメイトが飛行機で移動する中、クルマで10数時間かけて移動していた。そして、ときにはその移動の大変さを理由に遠征への帯同を拒否することも少なからずあったという。
 このベルカンプの飛行機嫌いの理由には諸説ある。友人を飛行機事故で無くした説。もうひとつは、以前飛行機で爆弾テロ騒動に巻き込まれたというもの。真偽の程はわからない。
 ベルカンプの生涯を通したプレーのなかでも、ひときわ鮮明に思い出されるのは、1998年のワールドカップでのアルゼンチン戦。ゲーム終了間際にフランク・デ・ブールからの約70メートル級のロングパス(このパスがまたすごかった)をぴたりとワントラップで止め、次のタッチでディフェンダーを交わし、右足で決めたゴールだ。この大会での輝きは、舞台がフランスだったことが大きい。なぜなら飛行機に乗る必要がなかったのだから。
 ベルカンプは、2002年の日本でのワールドカップ開催の前に代表引退を発表する。当時、皆ベルカンプは日本には行けないだろう(「物理的に」)と思っていた。まさか船で来るわけにもいかないし。そして、それはまさに現実となった。さらには、ベルカンプ抜きのオランダは、予選すら通過することはできなかったというオチも付いた。
 アーセナルファンも、オランダ人も皆、口をそろえて「ベルカンプが飛行機嫌いじゃなかったら今ごろ……」と思ったことだろう。だがそれはディエゴ・マラドーナエリック・カントナが人格者だったら……というのと同じことだ。飛行機嫌いとベルカンプという才能は、2つで1つのものなのだ。

 

「エマニエル夫人」は乗りもの映画である~もちろん二重の意味において【後編】


■知られざるその後のエマニエル

さて、大ヒットした映画『エマニエル夫人』には多くの続編が作られている。シルビア・クリステルが主演を努めるシリーズとしては、翌年に公開された『続・エマニエル夫人』さらに『さようならエマニエル夫人』がある。前者は、舞台が香港になり音楽はフランシス・レイに、後者は舞台をセイシェル島に移し、音楽はセルジュ・ゲンズブールになる。だがまあ、それ以外に特に語るべきことはない。

以後、エマニエルは全身整形を行ったという無茶な設定の下、主役を別のポルノ女優に切り替えて作られたシリーズも作られた。モニーク・ガブリエルがエマニエルとなる『エマニエル ~ハーレムの熱い夜~』では、無意味に銃撃戦を繰り広げるなどの荒唐無稽なおもしろさはあるが、これらも特に語るべきことはない。


だが、その後に制作された『エマニュエル・ザ・ハード』のシリーズには触れておきたい。フランスで1991年から放送された『エマニュエル・ザ・ハード』は、なんとテレビシリーズとなったエマニエルである。テレビと言っても、「ザ・ハード」というだけあって、映画版よりちょっとだけエロ度は高いかもしれない。

その第1話は、冒頭、オリジナル『エマニエル夫人』を意識し、飛行機が滑走路から飛び立つシーンから始まる。飛行機とソフトフォーカスと、フランス語ボーカルの音楽がかぶされば、誰が撮ってもまあエマニエルになるのだ。

テレビ版のエマニュエルは、20年前に“愛”を知ったバンコクへと再び旅立つ。といっても、このエマニエルを演じるのは、シルビア・クリステルではなく、別の女優。あれから20年ということは、エマニエルは40才になっているはずだが、彼女の見た目はまだ若い。これは、のちに示されるのだが、実はエマニエルは永遠の命を手に入れていたのだ。

飛行機の中で、エマニエルはかつて性への導きを受けた(と言っても、アヘンを吸っただけだけど)マリオに出会う。彼女は自分があのときのエマニエルであることを伝えるが、彼はそれを信じようとしない。どうみても年齢があっていないからだ。エマニエルは、自分が今の若い姿を手に入れた経緯を、回想として話始める。

■『エマニュエル・ザ・ハード』と大乗仏教

エマニュエルは、バンコクでマリオに官能の世界に導かれ(何度も言うが、アヘンを吸っただけ)たのち、ファッション業界にすすみ、そこで成功を収めた。だが、そのファッション業界に疲れたエマニュエルは、チベットの山奥の寺院で修行に出かける。日本の疲れたOLの禅寺で精進料理を食べるオプション付きのパワースポット巡りツアーみたいなものである。

エマニュエルは、チベットの寺院に滞留中、そこの老僧によって永遠の命を与えられることになる。具体的には、胸に垂らすとどんな女性にでも変身できる「秘薬」が与えられたのである。この秘薬を使えば、エマニュエルは若いままの姿でいることができ、他の女性の魂に入り込むこともできる。ただし、この秘薬の効果は、彼女に与えられた「使命」に逆らう行為をすると切れてしまう。「使命」とは、「皆を幸福にする」というものだという。

秘薬によって若返ったエマニュエルは、やはり若返った老僧と対面座位によるセックスを行う。このシーンには、チベット展で見たような6本うでの仏像のカットが、セックスのシーンと交互にカットバックで使われる。これを他の宗教の神像でやったら、たぶんカンカンに抗議を受けるだろう。チベット仏教は寛大である。


そんなチベットでの体験を飛行機の中でマリオに話して聴かせるエマニエル。マリオはもちろん信じない。すると、エマニュエルはトイレで本当の自分の姿に変身してマリオの前に現れる。ここで登場するのは、滝川クリステルである。間違えたソフトフォーカスをたっぷりかけても、まったく誤魔化し切れていない40歳をひかえた本物のシルビア・クリステルである。

二人は20年の時を隔てた再開にシャンパンで乾杯し、再び彼女の昔語りが始まる。彼女が秘薬を得て、最初にセックスをした相手は、チベットのホテルの手違いから同部屋になってしまった青年・ファルコンである。彼はのちに、ロックバンドで成功。エマニエルは、彼のバンドのライブ会場を訪ね、10年ぶりの再会を果たす。

ロックのライブ後、控え室ではメンバーたちが「ファルコン、今夜のおまえは最高だったぜ」みたいな、漫画『NANA』でも言わないようなロックバンド然とした会話を交わしながら、楽屋でメンバー同士セックスをしまくっている。だが、ファルコンを片隅から眺めている女の子がいる。彼女は、バンドに付いている料理番である。あこがれのファルコンに近づくために料理をしているのだ。だが、ファルコンは彼女の料理に口を付けない。彼女は自分が好かれていないと思い込み、落ち込んでいる。

実はファルコンは、彼女のことがきらいなのではなく、アメリカのジャンクな食べ物が好きなだけだったのだ。それに気づいたエマニュエルは彼女の魂に入り込み、ジャンクフードを持ってファルコンの部屋へ行き、誘いをかける。

2人はばっちり仲直りをしてセックスをする。これで、エマニュエルは、人を幸せにするという「使命」を果たすのだ。ここから「真理と美と愛」を追求するエマニュエルの旅が始まる。以後、このシリーズは、香港、ギリシャ、カンヌ、アムステルダムと、エマニエルの性の諸国漫遊の旅として続いてゆく。

チベットでの高僧からもらった秘薬で、世界を奔放な性の楽園に変えていこうとするエマニュエルは、行く先々で、享楽の限りを尽くし、セックスによって人々を救っていく。これは、苦の中にあるすべての生き物たちを救いたいという精神を基にした大乗仏教の教えをベースに置いているのだ。

さらに「大乗」とは、偉大な乗り物を意味する。飛行機でのセックスしちゃうのも、まさに大乗ならではのことなのだと納得。なんか、罰当たりなことを書いているようだが、そういう話なのだから仕方がない。

■飛行機と通過儀礼

最後に、もう一度このシリーズの原作者(としてクレジットされる)であるエマニュエル・アルサンについて触れておきたい。

16歳の若さでフランス人と結婚し、タイを離れて人生を歩むことになった彼女の境遇からは、まだ性的な経験の皆無であった若い妻を自分の思いのままに染めていく男の身勝手な願望を読み解くことができてしまう。フィクションである『蝶々夫人』について論じられるような、西洋と東洋の間の不均衡な植民地主義的な権力関係もそこから読み取るのは容易である。だが一方で、そういった枠の中だけに彼女の人生を押し込めてしまうのもまた暴力である。あの時代にタイを飛び出し、西洋の教養を身につけ、彼女が本当にこの小説の著者であったかどうかは別として、『エマニエル夫人』を記す、もしくはそのモデルになった彼女の人生はとても興味深いものでもある。

旅行というのは、ヨーロッパの貴族の風習においては、子どもの内に多くの経験を摘むための修行であり、大人になるための通過儀礼であった。“旅の恥はかきすて”という慣用句にも現れているように、そこでの“性的”な儀礼もまた付きものである。

その意味で、エマニエルの原作小説が、飛行機の機内の描写から始まるというのはとても示唆的である。そしてまた、機内の場面において、彼女が夫以外の男と初めてのセックスを行なう儀式的なものであったことも重要だ。映画においては、途中、回想として差し込まれたあの飛行機でのラブシーンである。

16歳で結婚し、タイを出た彼女が最初に見たであろう、西欧文明に満たされた空間が飛行機の機内であった可能性は高い。エマニュエル・アルサンが結婚した1940年代は、長距離国際線がようやく確立し始めた時期だ。さらに、結婚から10年が経ち、小説『エマニエル夫人』が刊行された50年代末は、ボーイング707DC-8といったジェット旅客機での飛行機旅行が普及し、飛行機での旅行が一般化した時期だ。こうした現代における国際間移動の手段であり、東洋と西洋の間を植民地主義の時代よりも遙かに早く移動可能にした飛行機は、エマニエルシリーズにおける、もっとも重要なアイテムである。

そして、もちろん彼女にとっての飛行機での旅行、また、そこにおいてのセックスは(実際にしたかどうかは別として)特別な通過儀礼であった。本稿で、飛行機のシーンととソフトフォーカスと、フランス語ボーカルの音楽さえあれば、エマニエルになるということを書いたが、まさにエマニエルシリーズにおいて、飛行機は彼女に次ぐ主役となっているのだ。

『エマニュエル・ザ・ハード』の冒頭にはシャルル・ド・ゴール国際空港のエスカレーターが登場する。この空港は、円形のターミナルやガラス張りのチューブ状エスカレーターが縦横無尽に走る世界一美しい空港である。シャルル・ド・ゴール国際空港の開港は、1974年3月のことで、『エマニエル夫人』がフランスで最初に公開された3ヵ月前のことだった。もう少し早ければ、映画でも使われていたかも知れない。

エマニエルのイメージが強いシルビア・クリステルのその後の女優としてのキャリアは、ぱっとしたものではなかった。『プライベート・レッスン』や『チャタレイ夫人の恋人』での役割は、エマニエルの焼き直しに等しいものに映る。

ただ、唯一目立った出演作である『エアポート'80』は、まさに飛行機、飛行場を舞台とした映画であった。この映画で彼女は、コンコルドのスチュワーデスを演じている。彼女たちが乗ったコンコルドは、戦闘機の追跡を受けながら、ニューヨークからパリの空港へ向かう。そして、目指したは、シャルル・ド・ゴール国際空港だった。

空港は映画の中での目的地でもあるのと同時に、女優としてのシルビア・クリステルの出発地でもあった。彼女にとっても、飛行機の中でのセックスシーンは、人生において大きな意味を持った通過儀礼だったことは間違いない。

 

*この原稿は、2012年10月18日にシルビア・クリステルさんの死を知り、かつて『BOOTLEG VOL.02』に掲載したものに加筆しブログにアップしました。ご冥福をお祈りいたします。

 

「エマニエル夫人」は乗りもの映画である~もちろん二重の意味において【前編】

■安手のポルノ映画がどうしておしゃれ映画になったのか?

『エマニエル夫人』は、1974年に公開されたフランス映画だ。当時、流行していたハードコアポルノではなく、女性客が押し寄せたという(特に日本では)「おしゃれ」なソフトポルノ映画である。

おしゃれ映画と目されているこの作品だが、実のところは金儲けが第一主義のケチケチしたプロデューサーが、手抜きで作ったものでしかなかった。そのケチプロデューサーこと企画・製作のイヴ・ルッセ=ルアールは、元々広告畑のプロデューサーである。これは成功した男の常だが、彼は日頃からいつか自分の映画を作りたいと考えていた。そしてある日、知人からフランスの10年前のベストセラーポルノ小説『エマニエル』の映画化すれば儲かるというアイデアを吹き込まれたイヴは、それを読みもせずに映画化の契約を取り付けたのだ。

映画のために集めたスタッフは、すべてCMしか撮ったことのない連中だった。映画の経験者は、トリュフォーの映画で脚本を書いているジャン・ルイ・リシャールと、同じくトリュフォーの編集をつとめたクロディーヌ・ブーシェだけだった。監督に抜擢されたのは、ファッション写真家で、映画監督への野心を持っていたジュスト・ジャカン。イヴが彼を抜擢したのは、彼の名前がアメリカ人っぽかったからだという。アメリカ人監督を起用すれば、話題に事欠かないと思ったのだろう。第一候補だったアート系の写真家には、安っぽいポルノの監督なんてゴメンだと断られ、その次の選択肢としてジャカンに声を掛けたのだ。

■素人だらけの撮影クルー

女優選びにも苦戦した。無名監督が撮るポルノ映画の主演という話を、フランス中の女優や女優の卵が出演を断った。主演女優はオランダで見つかった。無名のシルビア・クリステルはフランス語はほとんど話せなかった。さらに母国以外での映画出演ははじめてだった。

さて、よろこんで監督の椅子に飛びついた写真家のジャカンは、映画のいろはもろくに知らないまま撮影隊とともにタイに飛び、タイでのロケを敢行する。だが、シルビアは長い台詞が話せないため、始めに準備したカメラワークや構図は、すべて台無しになった。といっても、そもそも映画をよく知らないジャカンは、元々必要なクローズアップのショットやつなぎの場面などを無視して撮影を行っていたのである。

それでも撮影は進んだが、バンコックではフィルムの現像ができず、ラッシュは見ることができなかった。撮影フィルムは、そのままパリに送られ、パリで編集のクロディーヌらが確認した。パリのスタッフたちは、あまりの映像の出来の悪さに頭を抱えた。俳優たちの演技はひどく、使えない遠景のショットばかりだったのだ。共同プロデューサーの一人は、ロケ隊をパリに呼び戻そうと考えた。だが、クロディーヌは、とりあえず編集でなんとかするからと説得し、現場のジャカンに「クローズアップをもっと撮るように」とだけ電報で伝えた。

そんなドタバタ続きの現場だったがアクシデントはさらに続く。寺院の近くの聖域でヌード撮影を行っているところを通報され、クルー全員が逮捕されたのだ。それでも、映画は多くの人々の思惑や予想を尻目に、完成へと近づいていった。  ただし、この映画のもっとも有名な飛行機でのラブシーンは、実は監督ジャカンが演出したものではない。編集のブーシェは、この重要なシーンの撮影にダメを出し、監督にのシーンの再撮影をリクエストした。だが、さんざんだめを出しをされ、自信を喪失していた監督はそれを拒否。ブーシェは仕方なく、脚本のジャン・ジャックを呼び出し、飛行機のセットを使って再撮影を行った。その際、彼女たちは、トリュフォーの『二十歳の恋』のシーンを参考にコンテを描き、完全なコピーとしてシーンを再撮影した。のちに、このシーンをほめられた監督のジャカンは、これが自分の演出ではないことを隠し、自分の手柄にした。

■映画は勘違いを生んで大ヒット

こんな具合で、終始うまくいかなかったこの作品も編集を終え、試写会の段階までこぎ着けた。誰もがこれが傑作になったとは思えないまま公開日を待つこととなった。だが、いざ映画が公開されてみると、映画は大ヒット。連日、映画館は行列ができ、おしゃれなソフトポルノ映画の話題で、パリの街は持ちきりとなったのだ。

単に素人臭いと思われた演出やカメラワークは、これまでの映画にはない小粋でファッショナブルな演出として受けとめられた。ろくに筋立てもないと批判されることが多い映画だが、シナリオにおける構造はうまくいっていた。

贅沢で堕落したフランスの有閑マダムたちの日常と、タイのエキゾチックな風景の対比は、この映画にある種の風情をもたらしている。また、現代的な飛行機の中のシーンと、小型のボートで行き来するバンコックの水上市場の光景は、まったく異なった文明の、「交通手段」「乗り物」の差として印象的な落差を生み出した。そして、ヒットの最大の貢献者は、長身で手足が長く、まだ少女っぽいあどけなさが残るシルビア・クリステルの魅力だった。また、ゲンズブールが降りたあとに音楽を担当したピエール・バシュレの音楽もマッチしていた。

これらの要素が相まって、素人の手によるでたらめな作品になる可能性も高かった『エマニエル夫人』は、下世話なポルノではなく、小粋でファッショナブルな映画になったのだ。

■タイ駐留夫人たちの退屈な日常と性

『エマニエル夫人』の映画の中身はこういうものである。フランスの外交官の若き妻エマニエル(20歳くらいの設定)は新婚。外交官で夫と半年間んは別々に生活をしていたが、夫の赴任先タイで一緒に暮らすことになった。  エマニエルの夫・ジャンは、彼女よりも10歳以上歳が上で、エマニエルにとっては最初の男である。

ジャンは、彼女の美しさを自分だけが独占するのは罪深いと考えていた。彼は、妻の魅力が自分以外の男性にも開かれるべきであり、妻が望むのであれば他の男と情事に耽ることをねたまない、いや、むしろ歓迎すると妻には教えていた。実際、夫のジャンは奔放な性道徳の持ち主で、自分は現地の妻や使用人ら、美しい女性とは片っ端から関係を持っていたのだ。  夫の言葉とは裏腹に、エマニエルは貞節を守り、独りパリで生活をしていた。だが、バンコクへ旅立つ飛行機の機内で、初めて夫以外の知らない男とのセックスを経験する。一人目は周囲が寝静まった客席で、二人目はトイレの個室の中で。この2つのセックスは、エマニエルのこれから始まる新しい生活を予言した、旅立ちの儀式だった。

バンコクに着いたエマニエルは、ジャンに案内されてバンコック観光に出る。なにか恵んでくれと車にたかる子どもたち、締めた鶏の血抜きをしている野蛮な市場。パリとは何もかもが正反対であるバンコックの粗暴な様子にエマニエルは、はやくも嫌気がさす。

さらに、彼女を待っていたのは退屈で退廃した大使館員の妻たちだ。彼女たちは、高級なクラブで日常を過ごしている。水泳、スカッシュ、テニス、ゴルフ、そして奔放なセックス。夫の仕事の付き添いとして、このなにもない退屈な東南アジアの赴任先での生活を謳歌している。そんな、有閑マダムたちのリーダーである、アリアンヌは、エマニエルに「ここでの唯一の敵は退屈よ」とアドバイスをする。

こうした退屈な生活の中で、うぶだったエマニエルは年端のいかない少女のマリー・アンヌと出会い、彼女から自慰行為が自然な行為であることを学ぶ。また、有閑マダムのアリアンヌからは、レズビアンのセックスを手ほどきされる。エマニエルは、夫のジャンとの新婚生活に満足を覚えているのだが、さらなる成長を自分に課していた。まだまだジャンに相応しい妻にはなりきれない。そう考えた彼女は、性の奥義に近づくために精進し、自分を高めようと努力していた。

あるとき、彼女はエマニエルは大使館の妻たちからはつまはじきにされている美人のビーの存在に気付く。彼女はアメリカ人で、考古学の研究のためにタイに来ている研究者である。彼女は退屈をもてあましているフランスのマダムたちとは違い、倦怠に包まれずに生きている。そんな彼女に興味を持ったエマニエルは、自ら彼女に近づき、夫に黙って二泊三日の彼女の研究旅行に付き合う。

彼女の研究旅行は、山奥に入っていくもので、二人は旅を通して性的な意味でも親しくなる。これはエマニュエルにとって、受動的にではなく、自ら切り開いた初めての恋でもあった。  エマニエルに、奔放な性生活をすすめていた夫のジャンだが、実際にエマニエルが自分以外の存在と夜を過ごすとなると、途端に態度が変わってしまった。妻の不貞に機嫌を損ねた彼は、場末のストリップバーに繰り出し、有閑マダムのリーダー格である女性と荒々しいセックスを行うのだ。ジャンは、自分のことをさておいて、妻には貞淑を求める身勝手な男でしかなかったのだ。

■性の深淵か、オヤジの説教か

一方、ビーに夢中になったエマニュエルだが、彼女はてひどく彼女に振られてしまう。彼女はエマニエルを愛しているわけではなかった。エマニエルと寝たのは、彼女を傷付けたくなかっただけだった。  傷つき夫の元に戻ったエマニエルに、夫のジャンは、妻をマリオに引き合わせる。マリオは初老のイタリア人で、一部の人間の間で尊敬されている人物である。一見、エマニエルを賛美するプレイボーイ風だが、実はホモセクシャルであるようだ。

そのマリオは、エマニエルをアヘン窟へと誘い、「愛は官能の探求」であるとエロチシズムの本質を説教する。そして、タイ人のジャンキーたちに彼女を襲わせたのである。さらに、賭博場に連れて行き、若い男たちにムエタイの試合をさせ、その商品として勝利者に彼女との肛門性行をさせた。こうした実地訓練のあと、マリオはエロチシズムとは何かという高説を、エマニエルにくどくどと語るのである。しっかり事を成した後に、風俗嬢に説教するオヤジのようである。とは言え、映画版ではマリオはエマニエルと交わってはいないので、事も成さずにではあるのだが。

■『エマニエル夫人』に見るオリエンタリズム

当初の脚本では、この説教シーンをもって映画が終わるはずだった。本当にこのまま映画が終わってしまったら、意味不明の映画になっただろう。だが、この陳腐なラストシーンを、編集のクロディーヌが作りかえた。クロディーヌは、マリオの退屈な演説ではなく、鏡と向き合うクリステルのシーンを最後に持ってきた。このシーンは、念入りに化粧するエマニエルが、変身した自分の姿を鏡に映すという内容である。新しいエマニエルとして生まれ変わったということを暗示させる、意味深なシーンである。このカットを挿入することにより、映画にはそれなりの深みと味わいが加味されたのだ。

彼女にこのラストのアイデアを提供したのは、セルジュ・ゲンズブールジェーン・バーキンのカップルだった。当初、この映画の音楽を依頼されたゲンズブールは、映画の出来に不満があり、仕事を断っていた。だが、仲の良かったクロディーヌに、映画を良くするアドバイスをしたのだ。 『エマニエル夫人』とは、つまるところフランス人が東南アジアにやってきて、アヘンを吸って勝手に東洋の神秘を感じ、“旅の恥はかき捨て”の域を超えない冒険的なセックスにいそしむ話である。エマニエルが性の伝道師であるマリオの導きによって、性の神秘的な深みへと導かれていくといっても、つまるところドラッグを伴うセックスをする楽しみを知った程度の話でしかない。

この映画をひとことで表すなら「オリエンタリズム」ということになる。つまり、植民地主義的な都合のいい西洋からの東洋を蔑む視点の下で作られた映画なのである。その証拠にタイ人の男性は、対等なセックスの相手としては描かれない。アヘン中毒でありエマニエルを複数でレイプする相手であり、ムエタイの試合に勝利し、その商品としてエマニエルとのアナル・セックスを行う相手なのだ。つまりは、愛情の交歓相手ではなく、感情の伴わない野蛮人としてのセックスの相手である。

タイ人女性の描かれ方も大差はない。エマニエルの夫であるジャンは、使用人であるタイ人女性に手を付けているが、それは使用人と主人の関係であり、やはり愛情とは無縁なのだ。  このように『エマニエル夫人』とは、19世紀の植民地主義的な尊大さ、東洋と西洋の不平等な力関係が前提とされた物語である。だが、こういったいわゆるポスコロ、カルスタの常套句的な批判は、実はこの物語の原作者がタイ人であり、しかも女性であるという事実にぶち当たると、その論拠は、大きく揺らいでしまう。そう、この映画の元になった小説の著者は、タイ出身の生粋のアジア女性なのである。その話をする前に、タイと西洋の関わりの歴史について、少しだけおさらいをしておきたいと思う。

■シルク王ジム・トンプソンとエマニエルの人生

『エマニエル夫人』の舞台となったタイは、一度も欧州列強の植民地となったことのない東南アジア唯一の国である。ビルマがイギリスの、ラオスカンボジアがフランスの植民化に置かれる中、その間に位置するタイは、ちょうど緩衝地帯の役割を果たし、欧州列強からの植民地化を免れることになったのだ。

第二次大戦においては、タイの国土も戦場になった。実はタイは、枢軸国側として日本と同盟を結び、イギリス及び連合軍相手に戦った。だが、日本の旗色が悪くなると、うまく敗戦国となることを回避し、連合国の一員に鞍替えする。この裏には、アメリカの戦略諜報局(OSS。CIAの前身)による活躍があった。タイ国内に潜入した諜報部員が、タイの抗日グループの組織化を手助けし、国を挙げて日本に敵対するよう工作を行ったのだ。

そのOSSの工作員であり、バンコク支局長として大戦の終結を終えたのがジム・トンプソンである。戦後、彼はアメリカに帰ることを拒み、現地でビジネスを始めた。トンプソンは、当初欧州からの観光客向けのオリエンタル・ホテルなどの事業を手がけるが、のちにタイの伝統産業であったシルクの生産に目を付ける。彼が近代化させたタイシルク産業は、西洋で注目を浴び、彼はシルク王として巨大な富を得る。

シルク王ジム・トンプソンの逸話は、直接『エマニエル夫人』とは関係がないが、時代背景やタイにおける西洋人の生活を知るには、いい比較対象である。  元々、入隊以前は建築家であったトンプソンは、タイに自ら設計した邸宅を作った。写真で見る限り、『エマニエル夫人』に登場するジャンとエマニエルの住む家の雰囲気によく似ている。西洋風の作りではなく、タイの伝統建築を装った建物だ。外のテラスと屋内が敷居で仕切られていない、オープンな作りである。トンプソンは、ここに、西欧人のゲストを招いてパーティ三昧の日々を送ったという。

 『エマニエル夫人』の原作は、1959年に刊行されたエマニュエル・アルサンという作家の手によるポルノ小説『エマニエル』である。当初は匿名で刊行されたこの小説は、哲学的な内容が絶賛され、大ベストセラーになった。 この小説は、映画同様、フランス人の娘が18歳で外交官と結婚し、バンコックへ行くというものである。だが、著者名のエマニュエル・アルサンはペンネームであり、その正体は驚くことに、タイで生まれ育った女性であった。しかも、16歳でフランスから来た外交官と結婚し、のちにフランスに渡ることになるのだ。

彼女がフランス人外交官と結婚したのは、1948年のこと。その10年後に、彼女の人生に起こったことの一部を反映したものとして、小説が刊行されている。小説のヒット時や映画公開時には、主人公が複数男性レイプされ、賭けの商品となるという内容が問題とされ、批判の声も巻き上がったという。だが、それに対し、女性作者が書いたものであり、男性優位の視点から書かれたわけではないという反論がなされた。

 だが、本当にエマニュエル・アルサンこと、マラヤット・アンドリアンヌがこの小説の本当の作者ではないという説もある。外交官である夫が書き、それを妻名義で刊行したというのだ。ホッブスニーチェギリシャ神話や旧約聖書といった、西洋の思想史の引用で綴られるこの哲学的な本が、10代半ばまでを東南アジアで過ごした20代半ばの者に書けるかというと、それは難しいのではないだろうか。妻が名義を貸した説にも、一定の信憑性はある。この話題は一旦締める。

さて、ジム・トンプソンのタイシルクが成功したのは、ハリウッド映画『王様と私』(1956年)の衣装に採用されたことがきっかけだった。この映画は、19世紀のタイを舞台に、タイ王族の家庭教師としてやってくるイギリス人女性の物語である。タイを舞台にしたポルノ小説『エマニエル夫人』が1959年であるから、この当時は、エキゾチックなタイが、西欧においてちょっとしたブームになっていたことがわかる。タイはインドネシアのバリ島に次ぐ、東南アジアでナンバー2の観光地である。欧米の映画や小説の題材になることも多い。ベトナム戦争では、米軍も駐留するなど、西洋との接点も少なくない。

そして、そのタイでもっとも成功した西洋人であるトンプソンの謎の失踪が、世界的にミステリーとして騒がれたのは、1967年のこと。『エマニエル夫人』映画化され、世界的にヒットする7年前のことだ。

トンプソンの失踪は、別荘の持ち主である友人の夫婦と、トンプソンと同行していた知人の夫人が昼寝をしている間に、消えてしまったという奇怪な事件であり、身代金目当ての誘拐だとも、かつて彼が所属した諜報機関に関わる政治絡みの犯罪だとも言われているが、真相は定かでない。

〈続く〉

このテキストの初出はインディーズ映画雑誌『BOOTLEG VOL.02』に掲載されたものです。

 

 

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