田中康夫とさだまさし

 小説『なんとなく、クリスタル』が発表されたのは、80年。海外ブランドに囲まれた女子大生・由利のリッチな消費生活を描いた小説は社会現象となった。
 小説の脚注で著者の田中康夫は、さだまさしの悪口を書いていた。戦争が始まったら真っ先に戦争賛歌を作りそうだというのだ。なるほどこの前年、さだは、映画『二百三高地』の主題歌『防人の詩』を歌っている。
♪この世に生きとし生けるものの すべての生命に翳りがあるのならば 海は死にますか 山は死にますか♪(作詞さだまさし
二百三高地』は、日露戦争の旅順での攻防を描いた長編映画。歌詞を読んでも陰鬱さが強く伝わってくるこの歌は、むしろ反戦歌の色が濃く出ているようにも思う。だが、田中はそう受け止めていない。
 ほぼ同時代の80年代に流行していた漫画家の吾妻ひでおの作品には、性格の暗い主人公が突然『防人の詩』を歌い出すという場面が登場していた。
「根暗・根明」が流行語になったのは、まさに`80年代前半のこと。性格の暗い人間は、気持ち悪がられたり煙たがられした。方や、明るい奴らが人気ものの座を得ていた時代。
 田中康夫的な価値観と暗いさだまさしの歌は、相反するモノだった。後者は、陰鬱な戦後を引きずる古い社会。それを嘲笑うような態度で田中康夫は文壇に登場してきた。田中康夫さだまさしの悪口を書くことで自分の立場をアピールしていたのは、戦闘的だが、当時の空気感としては理解されやすかっただろう。
 ただし、最近となってはさだまさしの歌が暗いというコンセンサスは薄くなっている。本人のキャラクターは、むしろおしゃべり。根暗とは遠いことが広く知られた。むしろ、微妙なのは今の田中康夫の方のキャラクターかもしれない。
 ちなみに、『なんとなく、クリスタル』の続編『33年後のなんとなくクリスタル』が2014年に刊行された。かつてキラキラした生活を謳歌したヒロインたちも50代に差し掛かり、健康や親の介護に気を遣っているのがほほえましい。もうさだまさしの悪口は書かれていなかった。

 

33年後のなんとなく、クリスタル

33年後のなんとなく、クリスタル