21世紀版”レッツゲットフィジカル”。サブスクリプション時代の所有と自由

 2015年、世界の音楽産業においてデジタルの売り上げがフィジカルのそれを上回ったという。こんな言い回しで意味は伝わるだろうか? CDの売り上げをネット配信が追い越した。それ自体は、驚くべきことでもない。むしろ音楽CDを”フィジカル”と呼ぶのだということが気になる。


 ストリーミングやダウンロードといった”物質”を伴わない音楽再生の手法が主流になりつつある音楽市場で、CDはいつしかフィジカル、つまり身体を伴うメディアと呼ばれるようになっていた。”フィジカル”という言葉を使うことへの違和感とは何だろう。「同僚がメンタルやられちゃってさ」という会話と違って「うちの夫がフィジカルやられちゃったのよ」という言い方は、日常会話っぽくないのだ。わざわざといったニュアンスが付いてくる。


 ”フィジカル”や”物質”に脚光が当たった時代があった。オリビア・ニュートン=ジョンは、自らレオタードに身を包み、エアロビクスダンスを披露したMVをつくり「フィジカルを体得しましょう」と歌った。マドンナは『マテリアル・ガール』という曲でブレイク。物質の女の子というのは直訳だが、現金払いの相手が理想の相手と歌う割り切った女の子のイメージだ。オリビアで始まり、マドンナが引き継いだ80年代のイメージは、資本主義のきらびやかなイメージそのものだった。そんな時代からしばらく経って、9・11の同時多発テロが起こり、リーマンションが起こった。いや、そういったきっかけもあっただろうが、もっと大きな時代の流れの中で、モノに執着しない価値観が広まりつつある。


 反物質というのは言いすぎだが、例えば、シンプルライフ、オーガニックライフ、断捨離ブーム、これらは日米それぞれの差異はあれど、どれもがモノから逃れるという共通点を持った現象である。最新型のクルマを買うよりも、家で手作りのピクルスを漬けていることがぜいたくだと思い始めている人々がいるのだ、いましているのは、かつてはモノがぜいたくだった時代があったという話ではない。かつては、モノを手に入れることが自由を示すことに他ならなかったという話である。


 鈴木正文さんという僕の尊敬する編集者がいる。元々自動車雑誌の『NAVI』の編集者で、現在は『GQ』の編集長だ。テレビなどにもよく出ている。正論を正面から言う半ズボンをはいているあの人といえばピンとくるのではないか。


 そのスズキさんは、いつも高価な服を着て、モーガンなどの飛び切り上等なクルマに乗っているのだが、彼は同時に共産主義者である。いまでも革命によって世界が共産主義者化することが正しいと信じている。ぜいたくの愛好者でありながら共産主義者。傍からは一見矛盾するが、スズキさんの中に矛盾はない。むしろ、誰しもがぜいたくな消費の恩恵に預かることができる世界に胸を張っている。平等な社会は、世界同時革命によってもたらされることはなかった一方、さまざまなモノが大量生産などによって絶対的に安くなることで、実質的に社会はフラットになった。モノを持つことが、労働者の自由を示すことというのはそういう意味合いにおいてである。


 スズキさんが、さまざまな高級車に乗りながらも同時に何度も乗り継いでいるクルマがある。シトロエン2CV。このクルマは、1968年のパリ五月革命のフィルムに登場する。2CVは、スズキさんにとっては自由と革命の象徴のような存在なのだ。


 このご時世、2CVを維持するのはたいへんである。故障もするし、最新型の自動車よりも燃費も悪い。そもそも、新車だろうが骨董車だろうが駐車場の料金は同じなのだ。かつては自由の象徴だったとは言え、今となっては不自由極まりない代物だろう。ヴィンテージカーは、フィジカルの固まりである。実際、スズキさんがいまも2CVを所有しているかは知らない。そう、現代において人がモノを手放すほうに、より自由を感じつつあるのは、理にかなっている。モノを持つことは、そこから制限を受けることを意味する。マイホームでの定住よりも軽やかに移動可能な人生の方が自由。フレキシブルに自分の場所を見つけて動ける人のほうが、仕事での成功可能性が高い時代でもある。


 2018年11月。トヨタが、2019年に自動車のサブスクリプション(定額利用料支払い)方式でのサービス開始を発表した。サブスクリプション方式とは、最新のITサービスがこぞって導入しているビジネスモデルである。音楽定額サービスのSpotifyに動画配信のNetflix。これらは、データはすべてクラウド(サーバ)上に保管されていて、端末には保存されないという特徴を持ったサービスである。デジタルデータですら所有しない時代。モノの所有が持つ意味合いも変わっていく。


 自動車のサブスクリプションといった場合、一定額を毎月払えば、クルマに乗り放題ということになるようだ。具体的には、サービス契約者は、メンテナンスの費用を支払うことなくクルマが利用でき好きなタイミングで好きな車種に乗り換えることができるのだ。クルマの所有にこだわる人たちがいなくなるわけではない。ただそれだけではもう商売は難しい時代になるということだ。
 デジタルの対義語は、かつてはアナログだったがいまはフィジカルになった。もちろん、クルマの市場でフィジカルがデジタルに抜かれるという事態は基本的に起こりえない。人の身体を運ぶ乗り物がクルマである以上、フィジカルな存在であることは放棄できないからだ。
 だが、今のクルマはコンピュータによる安全技術によって制御されているという意味においても、これからネットへの常時接続、双方向の情報交換に伴ったサービスの普及していくという意味においても、クルマはフィジカルとデジタルのハイブリッドのモノになっている。現状、フィジカル70パーセント、デジタル20パーセントといった具合だろうか。その割合は、急速に変化するだろう。
 今一度、オリビアに立ち返る。あの時代、彼女があれを歌ったのは(本人にはもちろん意図はないとは言え)絶妙なタイミングだった。ベトナム戦争ウォーターゲート事件アメリカの人々は政府への不信や陰謀論に揺さぶられていたそして、ヒッピー、オカルト、ニューエイジ精神主義的なものが万円していた。そこで彼女はあの歌を歌ったのである。
 所有が絶対のものではなくなり、フィジカルの対義語が変化していく時代においてこのオリビアのメッセージはまた別の意味合いを持ち始めるだろう。この原題、ぜいたくについて考える上での大きなヒントを持つのが彼女の歌の歌詞だ。おそらく数年後、このメッセージが僕らの心にかつてなく強く響きわたるはずだ。「フィジカルを体得しましょう。フィジカルを得ましょう」。

(初出 AERA STYLE MAGAZINE Vol.41 2018 WINTER)

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飛行機とフットボール

※『フットボールサミット』誌連載「すべての男の子の名前はジネディーヌ」第4回(2014年掲載分)

■飛行機事故で死ぬロック歌手とサッカー選手


バディ・ホリーが死んでロックンロールは終わったのさ」
 と言ったのは、ジョン・ミルナーである。1972年のことだ。ミルナーは映画『アメリカン・グラフィティ』に登場するキャラクターだが。
 1950年代に活躍したロックンローラーのホリーを殺したのは、飛行機だ。彼は、同じくロックンローラーのリッチー・ヴァレンス、そしてバンドのメンバーとともにツアーに出ている最中だった。本来は、バスでのツアーだった。だがスケジュールは厳しく、彼らは体力の限界に達していた。ホリーの着替え用の下着がなくなり、いらついていたという説もある。彼らが、遅れていたスケジュールを挽回するようにチャーターしたビーチクラフト社の4人乗り単発機ボナンザ35は、アイオワ州のトウモロコシ畑に墜落。ホリーらは命を絶った。
 20世紀の偉大な発明、いや人類史における偉大な発明のベストテンには、必ず飛行機の発明という項目が含まれる。だが飛行機の発明は、単に人が重力に逆らって空を飛べるようになっただけでなく、同時に長距離輸送の発明であり、軍事的にも大きな意味を持つ航空写真の発明であり、戦略爆撃、そして飛行機事故という大量死の発明でもあった。
 ドン・マクリーンは、『アメリカン・パイ』という曲の中で、この1959年2月3日のことを「音楽が死んだ日」(The Day the Music Died)と歌った。この歌は、マドンナもカバーしている。
 飛行機事故で死んだミュージシャンはたくさんいる。グレン・ミラー、オーティス・レディング、レイナード・スキナードの主要メンバー、坂本九、ジョン・デンバー、スティービー・レイボーン


Don McLean - American Pie (Good quality)

 

そして、サッカー選手もまた、飛行機事故によって死んでいる。1949年、アリタリア航空のACトリノの選手を乗せたチャーター便が墜落した「スペルガの悲劇」。1993年にザンビア空軍の輸送機が、ガボンの首都リーブルヴィルの空港を離陸直後に墜落した事故では、ザンビア代表選手全員が死亡した。ザンビアは、この悲劇を乗り越え、19年後の2012年に、ガボンで開催されたアフリカネイションズカップで初優勝を遂げる。この大会で決勝進出を決めたガボン代表は、リーブルヴィルの海岸で、事故の追悼を行い、決勝での勝利を誓ったという。
 今回のテーマは、飛行機とサッカーである。

ミュンヘンの悲劇マンチェスターユナイテッド


 サッカー史上最悪の悲劇とされるのが、1958年2月6日の西ドイツのミュンヘン、リーム空港で起こった航空機事故だ。
 マンチェスター・ユナイテッドは、レッドスター・ベオグラードとのチャンピオンズカップの試合を3対3で引き分け、準決勝進出を決めたばかりだった。この試合に出場したボビー・チャールトンは、前半に3点取ったものの、凍り付いたピッチでの試合に手こずり、後半に3失点を喰らってしまったとこの試合を振り返る。
 その帰りのチャーター機は、給油のためにミュンヘンに立ち寄った。この日のミュンヘンは大雪だった。事故機の写真には、大雪で埋もれる大型プロペラ機墜落機の姿が映っている。2度の離陸に失敗したユナイテッドのチャーター機は、3度目の離陸を試みた際にフェンスに激突した。これによってユナイテッドの選手8名、スタッフ3名、他にも同乗していたジャーナリストたちの命が失われる。また、このチームの監督だったバスビーも重傷を負った。
 大雪にもかかわらず、無理な離陸を試みた理由は、チームがスケジュールを強行させたためだ。当時のイングランドのサッカー協会は、ユナイテッドが海外のカップ戦に参加することを快く思っていなかった。国内リーグの日程を優先させたかった協会と、その合間を縫ってチャンピオンカップに参戦したユナイテッドの仲はよくなかったのだ。
 ユナイテッドの選手を乗せたチャーター機は、そんな無茶なスケジュールを遵守するために、飛び立たざるを得なかった。バディ・ホリーたちがスケジュールのため、本来バスだったツアーを飛行機に変更したのと同じである。強行日程の遂行が悲劇を生んだのだ。
 ちょうどこの原稿を書いている間に、こんなニュースも飛び込んできた。「ミュンヘンの悲劇」から生還した元主将のビル・フォルケス氏が81歳で死去したという。フォルケスが、真っ二つに折れてあちこち炎上する機内から生存者を運び出す救助活動を行った英雄である。それは、やはり事故の生還者であるチャールトンが、証言している。チャールトンは、事故後に機外に放り出され、15分ほど気を失っていたという。
 飛行機事故でバディ・ホリーが死んで、ロックンロールは終わったかも知れないが、ユナイテッドは終わらなかった。この年のチャンピオンカップを制するはずだったユナイテッドは、チャールトン、フォルケスらを中心に10年かけてチームを立て直し、1968年にその夢を果たすことになる。

■胸スポンサーと業界の変遷

 こうした悲劇を乗り越えた現代においては、サッカーチームと航空会社の関係性は、より深いものになっている。国境を越えたグローバルなビジネスである航空会社が、国境を越えた知名度を持つ人気サッカークラブのスポンサーになり、宣伝に利用しようというのは、至極当たり前のことなのだ。
 サッカーにもっとも力を入れているのは、アーセナルやACミランパリサンジェルマンといった世界の有名サッカークラブのユニフォームの胸スポンサー契約を結んでいるUAEのドバイを本拠地とする航空会社であるエミレーツ航空だ。エミレーツ航空は、世界最大の豪華旅客機A380を総計一〇〇機体以上注文するなど、豪勢なことで知られ、創業は1985年とまだ新しいが、すでに世界最大の輸送能力を持つ航空会社に成長した。
 一方、マンチェスターシティのユニフォームの胸スポンサーであるエティハド航空は、ドバイと同じUAEのアブダビを本拠地とする飛行機会社だ。これに、カタール航空を加えた中東の3大航空会社は、裕福な国家の援助を背に、航空業界の規制緩和によって自由化された(「オープンスカイ」政策)世界の空を制しようとしている。
 朝日新聞の稲垣康介編集委員は、胸スポンサーにかんして、面白い記事を書いている。それは、「経済のグローバル化で、有名サッカークラブの胸スポンサーは時代を映し出す鏡になった。トレンドの最先端で競争をが激しく、資金も潤沢な業界はどこか」という中身の記事である。
 この記事によると、かつて強かったのは日本の家電メーカー。マンチェスター・ユナイテッドといえば、昔はシャープのロゴを胸に付けていた。エリック・カントナがユナイテッドの背番号7を付けていた時代である。
 1990年代の初頭。セリエAダイジェスト以前の時代だ。テレビ東京が海外サッカーの情報番組として、マンチェスター・ユナイテッドの試合をダイジェストで放送するのが精一杯という時代。日本の海外サッカーファンと言えば、みなユナイテッドファンだった。
 カントナをグーグル画像検索すると、シャープの胸スポンサーの写真ばかりが並ぶ。稲垣委員の記事によると、「HITACHI」「JVC」「SONY」「Panasonic」「NEC」「OKI」など、「グローバル戦略に乗り出す日本の電機メーカー」が海外の強豪サッカーチームのユニフォームをスポンサードしていたという。確かにそうだった。
 それがベッカムとユナイテッドで画像検索をかけると、まだ彼が髪が長くて子どもっぽい時代の写真には「SHARP」の文字が、髪を短くして精悍な感じになってからは「vodafon」の文字が刻まれている。
 ユナイテッドは、1999年でシャープとの18年間のスポンサー契約を終了させると、今度は携帯電話キャリアボーダフォンと契約を結んだのだ。この携帯電話会社は、シャープの3倍の契約金を払ったという。同じ時代、バイエルンミュンヘンは、ドイツテレコム、レアル・マドリードは、ドイツのシーメンスだったという。
 家電メーカーから携帯電話会社へ。お金を持っている業種は変遷した。そして現代は、中東の航空会社である。考えてみれば、サッカーチームの胸にスポンサードするのに航空会社は適任だ。

バルサとユナイテッドのメンバー出演CM


 ちなみにエミレーツは、今期からレアルマドリードの胸スポンサーの契約を交わした。また、カタール航空は、総額1億3800万ユーロという高額を支払い、バルセロナの胸スポンサーの座を得ている。
 つまり、現在のエル・クラシコは、中東の航空会社の代理戦争の場と化したのだ。
 バルセロナのスポンサーとなったカタール航空が製作した、バルセロナのメンバーを用いたCMが話題になっている。
 これは、カタール航空の飛行機がバルセロナ諸島という架空の国に降り立つという趣向のもの。ツーリストに扮するのはネイマールで、彼のパスポートに判子を押す入国審理官はピケ。イニエスタは街の壁画を描く職人(ペンキ屋の作業着がかわいい)で、バルサカラーでペイントされたタクシーを運転するのはOBのギャリー・リネカーだ。プジョルはこの国のマンガのキャラクターとして、ポスターになっており、メッシはなぜかダンス教室のインストラクター。
 こうしたCMで思い出すのは、2010年にトルコ航空がつくったCMである。
 アンデルセンやエブラ、ファビオとラファエルの双子らが機内でボールを蹴って遊んでいる。見せ場は、ベルバトフの足技だ。そして、調子に乗ったルーニーが、強く蹴ってしまったボールの向かう先には、ボビー・チャールトンが読書をしている。
 ボールはぶつかるすんでのところで、ファン・デルサールが大きな手でブロックする(デ・ヘアでなくてよかった!)。ふう、ひと安心。こうした遊び心のある企画はおもしろいが、人気選手が全員使えるわけではない。契約更新が迫った選手の場合、CMが流れる頃には移籍でいなくなるというリスクもある。このユナイテッドのCMもたかだか3年前だが、すでに、いなくなった選手も数名いる。

 

■空を飛べないオランダ人


 ちょっとおどろくのは、このCMの最後のオチで使われるのが、ボビー・チャールトンであるという部分だ。これが、アレックス・ファーガソンではなかった理由も気になるが、それ以上に、航空機事故の被害者であるチャールトンが飛行機に乗って平然と読書をしているという内容の航空機会社のCMに出演することに抵抗はなかったのだろうか。
 彼は飛行機嫌いになることなく、事故を克服したのだろう。
 飛行機嫌いのサッカー選手として有名なのは、元オランダ代表のデニス・ベルカンプ。彼は、アーセナル所属時代、アウェー戦やカップ戦でチームメイトが飛行機で移動する中、クルマで10数時間かけて移動していた。そして、ときにはその移動の大変さを理由に遠征への帯同を拒否することも少なからずあったという。
 このベルカンプの飛行機嫌いの理由には諸説ある。友人を飛行機事故で無くした説。もうひとつは、以前飛行機で爆弾テロ騒動に巻き込まれたというもの。真偽の程はわからない。
 ベルカンプの生涯を通したプレーのなかでも、ひときわ鮮明に思い出されるのは、1998年のワールドカップでのアルゼンチン戦。ゲーム終了間際にフランク・デ・ブールからの約70メートル級のロングパス(このパスがまたすごかった)をぴたりとワントラップで止め、次のタッチでディフェンダーを交わし、右足で決めたゴールだ。この大会での輝きは、舞台がフランスだったことが大きい。なぜなら飛行機に乗る必要がなかったのだから。
 ベルカンプは、2002年の日本でのワールドカップ開催の前に代表引退を発表する。当時、皆ベルカンプは日本には行けないだろう(「物理的に」)と思っていた。まさか船で来るわけにもいかないし。そして、それはまさに現実となった。さらには、ベルカンプ抜きのオランダは、予選すら通過することはできなかったというオチも付いた。
 アーセナルファンも、オランダ人も皆、口をそろえて「ベルカンプが飛行機嫌いじゃなかったら今ごろ……」と思ったことだろう。だがそれはディエゴ・マラドーナエリック・カントナが人格者だったら……というのと同じことだ。飛行機嫌いとベルカンプという才能は、2つで1つのものなのだ。

 

「エマニエル夫人」は乗りもの映画である~もちろん二重の意味において【後編】


■知られざるその後のエマニエル

さて、大ヒットした映画『エマニエル夫人』には多くの続編が作られている。シルビア・クリステルが主演を努めるシリーズとしては、翌年に公開された『続・エマニエル夫人』さらに『さようならエマニエル夫人』がある。前者は、舞台が香港になり音楽はフランシス・レイに、後者は舞台をセイシェル島に移し、音楽はセルジュ・ゲンズブールになる。だがまあ、それ以外に特に語るべきことはない。

以後、エマニエルは全身整形を行ったという無茶な設定の下、主役を別のポルノ女優に切り替えて作られたシリーズも作られた。モニーク・ガブリエルがエマニエルとなる『エマニエル ~ハーレムの熱い夜~』では、無意味に銃撃戦を繰り広げるなどの荒唐無稽なおもしろさはあるが、これらも特に語るべきことはない。


だが、その後に制作された『エマニュエル・ザ・ハード』のシリーズには触れておきたい。フランスで1991年から放送された『エマニュエル・ザ・ハード』は、なんとテレビシリーズとなったエマニエルである。テレビと言っても、「ザ・ハード」というだけあって、映画版よりちょっとだけエロ度は高いかもしれない。

その第1話は、冒頭、オリジナル『エマニエル夫人』を意識し、飛行機が滑走路から飛び立つシーンから始まる。飛行機とソフトフォーカスと、フランス語ボーカルの音楽がかぶされば、誰が撮ってもまあエマニエルになるのだ。

テレビ版のエマニュエルは、20年前に“愛”を知ったバンコクへと再び旅立つ。といっても、このエマニエルを演じるのは、シルビア・クリステルではなく、別の女優。あれから20年ということは、エマニエルは40才になっているはずだが、彼女の見た目はまだ若い。これは、のちに示されるのだが、実はエマニエルは永遠の命を手に入れていたのだ。

飛行機の中で、エマニエルはかつて性への導きを受けた(と言っても、アヘンを吸っただけだけど)マリオに出会う。彼女は自分があのときのエマニエルであることを伝えるが、彼はそれを信じようとしない。どうみても年齢があっていないからだ。エマニエルは、自分が今の若い姿を手に入れた経緯を、回想として話始める。

■『エマニュエル・ザ・ハード』と大乗仏教

エマニュエルは、バンコクでマリオに官能の世界に導かれ(何度も言うが、アヘンを吸っただけ)たのち、ファッション業界にすすみ、そこで成功を収めた。だが、そのファッション業界に疲れたエマニュエルは、チベットの山奥の寺院で修行に出かける。日本の疲れたOLの禅寺で精進料理を食べるオプション付きのパワースポット巡りツアーみたいなものである。

エマニュエルは、チベットの寺院に滞留中、そこの老僧によって永遠の命を与えられることになる。具体的には、胸に垂らすとどんな女性にでも変身できる「秘薬」が与えられたのである。この秘薬を使えば、エマニュエルは若いままの姿でいることができ、他の女性の魂に入り込むこともできる。ただし、この秘薬の効果は、彼女に与えられた「使命」に逆らう行為をすると切れてしまう。「使命」とは、「皆を幸福にする」というものだという。

秘薬によって若返ったエマニュエルは、やはり若返った老僧と対面座位によるセックスを行う。このシーンには、チベット展で見たような6本うでの仏像のカットが、セックスのシーンと交互にカットバックで使われる。これを他の宗教の神像でやったら、たぶんカンカンに抗議を受けるだろう。チベット仏教は寛大である。


そんなチベットでの体験を飛行機の中でマリオに話して聴かせるエマニエル。マリオはもちろん信じない。すると、エマニュエルはトイレで本当の自分の姿に変身してマリオの前に現れる。ここで登場するのは、滝川クリステルである。間違えたソフトフォーカスをたっぷりかけても、まったく誤魔化し切れていない40歳をひかえた本物のシルビア・クリステルである。

二人は20年の時を隔てた再開にシャンパンで乾杯し、再び彼女の昔語りが始まる。彼女が秘薬を得て、最初にセックスをした相手は、チベットのホテルの手違いから同部屋になってしまった青年・ファルコンである。彼はのちに、ロックバンドで成功。エマニエルは、彼のバンドのライブ会場を訪ね、10年ぶりの再会を果たす。

ロックのライブ後、控え室ではメンバーたちが「ファルコン、今夜のおまえは最高だったぜ」みたいな、漫画『NANA』でも言わないようなロックバンド然とした会話を交わしながら、楽屋でメンバー同士セックスをしまくっている。だが、ファルコンを片隅から眺めている女の子がいる。彼女は、バンドに付いている料理番である。あこがれのファルコンに近づくために料理をしているのだ。だが、ファルコンは彼女の料理に口を付けない。彼女は自分が好かれていないと思い込み、落ち込んでいる。

実はファルコンは、彼女のことがきらいなのではなく、アメリカのジャンクな食べ物が好きなだけだったのだ。それに気づいたエマニュエルは彼女の魂に入り込み、ジャンクフードを持ってファルコンの部屋へ行き、誘いをかける。

2人はばっちり仲直りをしてセックスをする。これで、エマニュエルは、人を幸せにするという「使命」を果たすのだ。ここから「真理と美と愛」を追求するエマニュエルの旅が始まる。以後、このシリーズは、香港、ギリシャ、カンヌ、アムステルダムと、エマニエルの性の諸国漫遊の旅として続いてゆく。

チベットでの高僧からもらった秘薬で、世界を奔放な性の楽園に変えていこうとするエマニュエルは、行く先々で、享楽の限りを尽くし、セックスによって人々を救っていく。これは、苦の中にあるすべての生き物たちを救いたいという精神を基にした大乗仏教の教えをベースに置いているのだ。

さらに「大乗」とは、偉大な乗り物を意味する。飛行機でのセックスしちゃうのも、まさに大乗ならではのことなのだと納得。なんか、罰当たりなことを書いているようだが、そういう話なのだから仕方がない。

■飛行機と通過儀礼

最後に、もう一度このシリーズの原作者(としてクレジットされる)であるエマニュエル・アルサンについて触れておきたい。

16歳の若さでフランス人と結婚し、タイを離れて人生を歩むことになった彼女の境遇からは、まだ性的な経験の皆無であった若い妻を自分の思いのままに染めていく男の身勝手な願望を読み解くことができてしまう。フィクションである『蝶々夫人』について論じられるような、西洋と東洋の間の不均衡な植民地主義的な権力関係もそこから読み取るのは容易である。だが一方で、そういった枠の中だけに彼女の人生を押し込めてしまうのもまた暴力である。あの時代にタイを飛び出し、西洋の教養を身につけ、彼女が本当にこの小説の著者であったかどうかは別として、『エマニエル夫人』を記す、もしくはそのモデルになった彼女の人生はとても興味深いものでもある。

旅行というのは、ヨーロッパの貴族の風習においては、子どもの内に多くの経験を摘むための修行であり、大人になるための通過儀礼であった。“旅の恥はかきすて”という慣用句にも現れているように、そこでの“性的”な儀礼もまた付きものである。

その意味で、エマニエルの原作小説が、飛行機の機内の描写から始まるというのはとても示唆的である。そしてまた、機内の場面において、彼女が夫以外の男と初めてのセックスを行なう儀式的なものであったことも重要だ。映画においては、途中、回想として差し込まれたあの飛行機でのラブシーンである。

16歳で結婚し、タイを出た彼女が最初に見たであろう、西欧文明に満たされた空間が飛行機の機内であった可能性は高い。エマニュエル・アルサンが結婚した1940年代は、長距離国際線がようやく確立し始めた時期だ。さらに、結婚から10年が経ち、小説『エマニエル夫人』が刊行された50年代末は、ボーイング707DC-8といったジェット旅客機での飛行機旅行が普及し、飛行機での旅行が一般化した時期だ。こうした現代における国際間移動の手段であり、東洋と西洋の間を植民地主義の時代よりも遙かに早く移動可能にした飛行機は、エマニエルシリーズにおける、もっとも重要なアイテムである。

そして、もちろん彼女にとっての飛行機での旅行、また、そこにおいてのセックスは(実際にしたかどうかは別として)特別な通過儀礼であった。本稿で、飛行機のシーンととソフトフォーカスと、フランス語ボーカルの音楽さえあれば、エマニエルになるということを書いたが、まさにエマニエルシリーズにおいて、飛行機は彼女に次ぐ主役となっているのだ。

『エマニュエル・ザ・ハード』の冒頭にはシャルル・ド・ゴール国際空港のエスカレーターが登場する。この空港は、円形のターミナルやガラス張りのチューブ状エスカレーターが縦横無尽に走る世界一美しい空港である。シャルル・ド・ゴール国際空港の開港は、1974年3月のことで、『エマニエル夫人』がフランスで最初に公開された3ヵ月前のことだった。もう少し早ければ、映画でも使われていたかも知れない。

エマニエルのイメージが強いシルビア・クリステルのその後の女優としてのキャリアは、ぱっとしたものではなかった。『プライベート・レッスン』や『チャタレイ夫人の恋人』での役割は、エマニエルの焼き直しに等しいものに映る。

ただ、唯一目立った出演作である『エアポート'80』は、まさに飛行機、飛行場を舞台とした映画であった。この映画で彼女は、コンコルドのスチュワーデスを演じている。彼女たちが乗ったコンコルドは、戦闘機の追跡を受けながら、ニューヨークからパリの空港へ向かう。そして、目指したは、シャルル・ド・ゴール国際空港だった。

空港は映画の中での目的地でもあるのと同時に、女優としてのシルビア・クリステルの出発地でもあった。彼女にとっても、飛行機の中でのセックスシーンは、人生において大きな意味を持った通過儀礼だったことは間違いない。

 

*この原稿は、2012年10月18日にシルビア・クリステルさんの死を知り、かつて『BOOTLEG VOL.02』に掲載したものに加筆しブログにアップしました。ご冥福をお祈りいたします。

 

「エマニエル夫人」は乗りもの映画である~もちろん二重の意味において【前編】

■安手のポルノ映画がどうしておしゃれ映画になったのか?

『エマニエル夫人』は、1974年に公開されたフランス映画だ。当時、流行していたハードコアポルノではなく、女性客が押し寄せたという(特に日本では)「おしゃれ」なソフトポルノ映画である。

おしゃれ映画と目されているこの作品だが、実のところは金儲けが第一主義のケチケチしたプロデューサーが、手抜きで作ったものでしかなかった。そのケチプロデューサーこと企画・製作のイヴ・ルッセ=ルアールは、元々広告畑のプロデューサーである。これは成功した男の常だが、彼は日頃からいつか自分の映画を作りたいと考えていた。そしてある日、知人からフランスの10年前のベストセラーポルノ小説『エマニエル』の映画化すれば儲かるというアイデアを吹き込まれたイヴは、それを読みもせずに映画化の契約を取り付けたのだ。

映画のために集めたスタッフは、すべてCMしか撮ったことのない連中だった。映画の経験者は、トリュフォーの映画で脚本を書いているジャン・ルイ・リシャールと、同じくトリュフォーの編集をつとめたクロディーヌ・ブーシェだけだった。監督に抜擢されたのは、ファッション写真家で、映画監督への野心を持っていたジュスト・ジャカン。イヴが彼を抜擢したのは、彼の名前がアメリカ人っぽかったからだという。アメリカ人監督を起用すれば、話題に事欠かないと思ったのだろう。第一候補だったアート系の写真家には、安っぽいポルノの監督なんてゴメンだと断られ、その次の選択肢としてジャカンに声を掛けたのだ。

■素人だらけの撮影クルー

女優選びにも苦戦した。無名監督が撮るポルノ映画の主演という話を、フランス中の女優や女優の卵が出演を断った。主演女優はオランダで見つかった。無名のシルビア・クリステルはフランス語はほとんど話せなかった。さらに母国以外での映画出演ははじめてだった。

さて、よろこんで監督の椅子に飛びついた写真家のジャカンは、映画のいろはもろくに知らないまま撮影隊とともにタイに飛び、タイでのロケを敢行する。だが、シルビアは長い台詞が話せないため、始めに準備したカメラワークや構図は、すべて台無しになった。といっても、そもそも映画をよく知らないジャカンは、元々必要なクローズアップのショットやつなぎの場面などを無視して撮影を行っていたのである。

それでも撮影は進んだが、バンコックではフィルムの現像ができず、ラッシュは見ることができなかった。撮影フィルムは、そのままパリに送られ、パリで編集のクロディーヌらが確認した。パリのスタッフたちは、あまりの映像の出来の悪さに頭を抱えた。俳優たちの演技はひどく、使えない遠景のショットばかりだったのだ。共同プロデューサーの一人は、ロケ隊をパリに呼び戻そうと考えた。だが、クロディーヌは、とりあえず編集でなんとかするからと説得し、現場のジャカンに「クローズアップをもっと撮るように」とだけ電報で伝えた。

そんなドタバタ続きの現場だったがアクシデントはさらに続く。寺院の近くの聖域でヌード撮影を行っているところを通報され、クルー全員が逮捕されたのだ。それでも、映画は多くの人々の思惑や予想を尻目に、完成へと近づいていった。  ただし、この映画のもっとも有名な飛行機でのラブシーンは、実は監督ジャカンが演出したものではない。編集のブーシェは、この重要なシーンの撮影にダメを出し、監督にのシーンの再撮影をリクエストした。だが、さんざんだめを出しをされ、自信を喪失していた監督はそれを拒否。ブーシェは仕方なく、脚本のジャン・ジャックを呼び出し、飛行機のセットを使って再撮影を行った。その際、彼女たちは、トリュフォーの『二十歳の恋』のシーンを参考にコンテを描き、完全なコピーとしてシーンを再撮影した。のちに、このシーンをほめられた監督のジャカンは、これが自分の演出ではないことを隠し、自分の手柄にした。

■映画は勘違いを生んで大ヒット

こんな具合で、終始うまくいかなかったこの作品も編集を終え、試写会の段階までこぎ着けた。誰もがこれが傑作になったとは思えないまま公開日を待つこととなった。だが、いざ映画が公開されてみると、映画は大ヒット。連日、映画館は行列ができ、おしゃれなソフトポルノ映画の話題で、パリの街は持ちきりとなったのだ。

単に素人臭いと思われた演出やカメラワークは、これまでの映画にはない小粋でファッショナブルな演出として受けとめられた。ろくに筋立てもないと批判されることが多い映画だが、シナリオにおける構造はうまくいっていた。

贅沢で堕落したフランスの有閑マダムたちの日常と、タイのエキゾチックな風景の対比は、この映画にある種の風情をもたらしている。また、現代的な飛行機の中のシーンと、小型のボートで行き来するバンコックの水上市場の光景は、まったく異なった文明の、「交通手段」「乗り物」の差として印象的な落差を生み出した。そして、ヒットの最大の貢献者は、長身で手足が長く、まだ少女っぽいあどけなさが残るシルビア・クリステルの魅力だった。また、ゲンズブールが降りたあとに音楽を担当したピエール・バシュレの音楽もマッチしていた。

これらの要素が相まって、素人の手によるでたらめな作品になる可能性も高かった『エマニエル夫人』は、下世話なポルノではなく、小粋でファッショナブルな映画になったのだ。

■タイ駐留夫人たちの退屈な日常と性

『エマニエル夫人』の映画の中身はこういうものである。フランスの外交官の若き妻エマニエル(20歳くらいの設定)は新婚。外交官で夫と半年間んは別々に生活をしていたが、夫の赴任先タイで一緒に暮らすことになった。  エマニエルの夫・ジャンは、彼女よりも10歳以上歳が上で、エマニエルにとっては最初の男である。

ジャンは、彼女の美しさを自分だけが独占するのは罪深いと考えていた。彼は、妻の魅力が自分以外の男性にも開かれるべきであり、妻が望むのであれば他の男と情事に耽ることをねたまない、いや、むしろ歓迎すると妻には教えていた。実際、夫のジャンは奔放な性道徳の持ち主で、自分は現地の妻や使用人ら、美しい女性とは片っ端から関係を持っていたのだ。  夫の言葉とは裏腹に、エマニエルは貞節を守り、独りパリで生活をしていた。だが、バンコクへ旅立つ飛行機の機内で、初めて夫以外の知らない男とのセックスを経験する。一人目は周囲が寝静まった客席で、二人目はトイレの個室の中で。この2つのセックスは、エマニエルのこれから始まる新しい生活を予言した、旅立ちの儀式だった。

バンコクに着いたエマニエルは、ジャンに案内されてバンコック観光に出る。なにか恵んでくれと車にたかる子どもたち、締めた鶏の血抜きをしている野蛮な市場。パリとは何もかもが正反対であるバンコックの粗暴な様子にエマニエルは、はやくも嫌気がさす。

さらに、彼女を待っていたのは退屈で退廃した大使館員の妻たちだ。彼女たちは、高級なクラブで日常を過ごしている。水泳、スカッシュ、テニス、ゴルフ、そして奔放なセックス。夫の仕事の付き添いとして、このなにもない退屈な東南アジアの赴任先での生活を謳歌している。そんな、有閑マダムたちのリーダーである、アリアンヌは、エマニエルに「ここでの唯一の敵は退屈よ」とアドバイスをする。

こうした退屈な生活の中で、うぶだったエマニエルは年端のいかない少女のマリー・アンヌと出会い、彼女から自慰行為が自然な行為であることを学ぶ。また、有閑マダムのアリアンヌからは、レズビアンのセックスを手ほどきされる。エマニエルは、夫のジャンとの新婚生活に満足を覚えているのだが、さらなる成長を自分に課していた。まだまだジャンに相応しい妻にはなりきれない。そう考えた彼女は、性の奥義に近づくために精進し、自分を高めようと努力していた。

あるとき、彼女はエマニエルは大使館の妻たちからはつまはじきにされている美人のビーの存在に気付く。彼女はアメリカ人で、考古学の研究のためにタイに来ている研究者である。彼女は退屈をもてあましているフランスのマダムたちとは違い、倦怠に包まれずに生きている。そんな彼女に興味を持ったエマニエルは、自ら彼女に近づき、夫に黙って二泊三日の彼女の研究旅行に付き合う。

彼女の研究旅行は、山奥に入っていくもので、二人は旅を通して性的な意味でも親しくなる。これはエマニュエルにとって、受動的にではなく、自ら切り開いた初めての恋でもあった。  エマニエルに、奔放な性生活をすすめていた夫のジャンだが、実際にエマニエルが自分以外の存在と夜を過ごすとなると、途端に態度が変わってしまった。妻の不貞に機嫌を損ねた彼は、場末のストリップバーに繰り出し、有閑マダムのリーダー格である女性と荒々しいセックスを行うのだ。ジャンは、自分のことをさておいて、妻には貞淑を求める身勝手な男でしかなかったのだ。

■性の深淵か、オヤジの説教か

一方、ビーに夢中になったエマニュエルだが、彼女はてひどく彼女に振られてしまう。彼女はエマニエルを愛しているわけではなかった。エマニエルと寝たのは、彼女を傷付けたくなかっただけだった。  傷つき夫の元に戻ったエマニエルに、夫のジャンは、妻をマリオに引き合わせる。マリオは初老のイタリア人で、一部の人間の間で尊敬されている人物である。一見、エマニエルを賛美するプレイボーイ風だが、実はホモセクシャルであるようだ。

そのマリオは、エマニエルをアヘン窟へと誘い、「愛は官能の探求」であるとエロチシズムの本質を説教する。そして、タイ人のジャンキーたちに彼女を襲わせたのである。さらに、賭博場に連れて行き、若い男たちにムエタイの試合をさせ、その商品として勝利者に彼女との肛門性行をさせた。こうした実地訓練のあと、マリオはエロチシズムとは何かという高説を、エマニエルにくどくどと語るのである。しっかり事を成した後に、風俗嬢に説教するオヤジのようである。とは言え、映画版ではマリオはエマニエルと交わってはいないので、事も成さずにではあるのだが。

■『エマニエル夫人』に見るオリエンタリズム

当初の脚本では、この説教シーンをもって映画が終わるはずだった。本当にこのまま映画が終わってしまったら、意味不明の映画になっただろう。だが、この陳腐なラストシーンを、編集のクロディーヌが作りかえた。クロディーヌは、マリオの退屈な演説ではなく、鏡と向き合うクリステルのシーンを最後に持ってきた。このシーンは、念入りに化粧するエマニエルが、変身した自分の姿を鏡に映すという内容である。新しいエマニエルとして生まれ変わったということを暗示させる、意味深なシーンである。このカットを挿入することにより、映画にはそれなりの深みと味わいが加味されたのだ。

彼女にこのラストのアイデアを提供したのは、セルジュ・ゲンズブールジェーン・バーキンのカップルだった。当初、この映画の音楽を依頼されたゲンズブールは、映画の出来に不満があり、仕事を断っていた。だが、仲の良かったクロディーヌに、映画を良くするアドバイスをしたのだ。 『エマニエル夫人』とは、つまるところフランス人が東南アジアにやってきて、アヘンを吸って勝手に東洋の神秘を感じ、“旅の恥はかき捨て”の域を超えない冒険的なセックスにいそしむ話である。エマニエルが性の伝道師であるマリオの導きによって、性の神秘的な深みへと導かれていくといっても、つまるところドラッグを伴うセックスをする楽しみを知った程度の話でしかない。

この映画をひとことで表すなら「オリエンタリズム」ということになる。つまり、植民地主義的な都合のいい西洋からの東洋を蔑む視点の下で作られた映画なのである。その証拠にタイ人の男性は、対等なセックスの相手としては描かれない。アヘン中毒でありエマニエルを複数でレイプする相手であり、ムエタイの試合に勝利し、その商品としてエマニエルとのアナル・セックスを行う相手なのだ。つまりは、愛情の交歓相手ではなく、感情の伴わない野蛮人としてのセックスの相手である。

タイ人女性の描かれ方も大差はない。エマニエルの夫であるジャンは、使用人であるタイ人女性に手を付けているが、それは使用人と主人の関係であり、やはり愛情とは無縁なのだ。  このように『エマニエル夫人』とは、19世紀の植民地主義的な尊大さ、東洋と西洋の不平等な力関係が前提とされた物語である。だが、こういったいわゆるポスコロ、カルスタの常套句的な批判は、実はこの物語の原作者がタイ人であり、しかも女性であるという事実にぶち当たると、その論拠は、大きく揺らいでしまう。そう、この映画の元になった小説の著者は、タイ出身の生粋のアジア女性なのである。その話をする前に、タイと西洋の関わりの歴史について、少しだけおさらいをしておきたいと思う。

■シルク王ジム・トンプソンとエマニエルの人生

『エマニエル夫人』の舞台となったタイは、一度も欧州列強の植民地となったことのない東南アジア唯一の国である。ビルマがイギリスの、ラオスカンボジアがフランスの植民化に置かれる中、その間に位置するタイは、ちょうど緩衝地帯の役割を果たし、欧州列強からの植民地化を免れることになったのだ。

第二次大戦においては、タイの国土も戦場になった。実はタイは、枢軸国側として日本と同盟を結び、イギリス及び連合軍相手に戦った。だが、日本の旗色が悪くなると、うまく敗戦国となることを回避し、連合国の一員に鞍替えする。この裏には、アメリカの戦略諜報局(OSS。CIAの前身)による活躍があった。タイ国内に潜入した諜報部員が、タイの抗日グループの組織化を手助けし、国を挙げて日本に敵対するよう工作を行ったのだ。

そのOSSの工作員であり、バンコク支局長として大戦の終結を終えたのがジム・トンプソンである。戦後、彼はアメリカに帰ることを拒み、現地でビジネスを始めた。トンプソンは、当初欧州からの観光客向けのオリエンタル・ホテルなどの事業を手がけるが、のちにタイの伝統産業であったシルクの生産に目を付ける。彼が近代化させたタイシルク産業は、西洋で注目を浴び、彼はシルク王として巨大な富を得る。

シルク王ジム・トンプソンの逸話は、直接『エマニエル夫人』とは関係がないが、時代背景やタイにおける西洋人の生活を知るには、いい比較対象である。  元々、入隊以前は建築家であったトンプソンは、タイに自ら設計した邸宅を作った。写真で見る限り、『エマニエル夫人』に登場するジャンとエマニエルの住む家の雰囲気によく似ている。西洋風の作りではなく、タイの伝統建築を装った建物だ。外のテラスと屋内が敷居で仕切られていない、オープンな作りである。トンプソンは、ここに、西欧人のゲストを招いてパーティ三昧の日々を送ったという。

 『エマニエル夫人』の原作は、1959年に刊行されたエマニュエル・アルサンという作家の手によるポルノ小説『エマニエル』である。当初は匿名で刊行されたこの小説は、哲学的な内容が絶賛され、大ベストセラーになった。 この小説は、映画同様、フランス人の娘が18歳で外交官と結婚し、バンコックへ行くというものである。だが、著者名のエマニュエル・アルサンはペンネームであり、その正体は驚くことに、タイで生まれ育った女性であった。しかも、16歳でフランスから来た外交官と結婚し、のちにフランスに渡ることになるのだ。

彼女がフランス人外交官と結婚したのは、1948年のこと。その10年後に、彼女の人生に起こったことの一部を反映したものとして、小説が刊行されている。小説のヒット時や映画公開時には、主人公が複数男性レイプされ、賭けの商品となるという内容が問題とされ、批判の声も巻き上がったという。だが、それに対し、女性作者が書いたものであり、男性優位の視点から書かれたわけではないという反論がなされた。

 だが、本当にエマニュエル・アルサンこと、マラヤット・アンドリアンヌがこの小説の本当の作者ではないという説もある。外交官である夫が書き、それを妻名義で刊行したというのだ。ホッブスニーチェギリシャ神話や旧約聖書といった、西洋の思想史の引用で綴られるこの哲学的な本が、10代半ばまでを東南アジアで過ごした20代半ばの者に書けるかというと、それは難しいのではないだろうか。妻が名義を貸した説にも、一定の信憑性はある。この話題は一旦締める。

さて、ジム・トンプソンのタイシルクが成功したのは、ハリウッド映画『王様と私』(1956年)の衣装に採用されたことがきっかけだった。この映画は、19世紀のタイを舞台に、タイ王族の家庭教師としてやってくるイギリス人女性の物語である。タイを舞台にしたポルノ小説『エマニエル夫人』が1959年であるから、この当時は、エキゾチックなタイが、西欧においてちょっとしたブームになっていたことがわかる。タイはインドネシアのバリ島に次ぐ、東南アジアでナンバー2の観光地である。欧米の映画や小説の題材になることも多い。ベトナム戦争では、米軍も駐留するなど、西洋との接点も少なくない。

そして、そのタイでもっとも成功した西洋人であるトンプソンの謎の失踪が、世界的にミステリーとして騒がれたのは、1967年のこと。『エマニエル夫人』映画化され、世界的にヒットする7年前のことだ。

トンプソンの失踪は、別荘の持ち主である友人の夫婦と、トンプソンと同行していた知人の夫人が昼寝をしている間に、消えてしまったという奇怪な事件であり、身代金目当ての誘拐だとも、かつて彼が所属した諜報機関に関わる政治絡みの犯罪だとも言われているが、真相は定かでない。

〈続く〉

このテキストの初出はインディーズ映画雑誌『BOOTLEG VOL.02』に掲載されたものです。

 

 

エマニエル夫人 [DVD]

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『ONE PIECE』論

「海賊王に!!! おれはなる!!!!」と言ったのはモンキー・D・ルフィだが、「海道一の大親分に!!! おれはなる!!!」と言ったのは、清水次郎長である。初めて『ONE PIECE』全巻を一気に読んだとき、真っ先に頭に浮かんだのは、子どもの頃に父からカセットテープを譲り受け、何度も繰り返し聞いた浪曲師2代目広沢虎造の次郎長一家の物語だった。


 移動の自由すらなくまだ身分制度が固定された時代に、自由気ままに旅から旅へと流れ歩いた渡世人=博打打ち集団は、ワンピースの世界で言う海賊のような存在だ。そして、大政、小政、豚松に石松と少数精鋭の個性的なばくち打ちたちのキャラクターが魅力の清水一家は、ルフィ、ゾロ、ナミ、ウソップ、サンジ、チョッパーらのルフィ一味のようである。ちなみに、主人公のルフィは次郎長ではなく、『次郎長伝』の最も愛すべき存在、喧嘩が強くて馬鹿正直で義理堅い森の石松だろう。


「次郎長伝」は、戦前の日本で最も人気のあった、今で言えばまさにONE PIECEのようなコンテンツだった。当時のナンバーワン浪曲広沢虎造が次郎長の演目をやるときは、近所の風呂屋は空になったという。戦前の1930年代は大衆消費社会の始まりの時期。戦前と現代の最高のエンターテイメント作品の間には、意外と接点は多いのだ。


 1997年に『週刊少年ジャンプ』にて連載が始まり、今年(*2013年当時)で16年目に突入。コミックスの通算売り上げは、2億8000万部という、出版不況と呼ばれる昨今の事情を軽く吹っ飛ばすONE PIECEの人気の秘密を、この作品を読んだことのない人たちにもわかるように考察するというのが、本稿のミッションである。

■ヤンキー漫画とONE PIECE

 ONE PIECEは、麦わら帽子に短パンの主人公ルフィが仲間を集め、海賊船に乗って宝探しに出かける物語だ。海賊王ゴールド・ロジャーが、死に際に「ONE PIECE」と呼ばれる、富、名声、力をひとつなぎにする「宝」の存在を示し、そこから世界は大海賊時代を迎え、海賊たちが暴れ回る世界がやってくる。

 さて、過去のあらゆる漫画の中で、最も売れている人気作品ONE PIECEだが、決して万人に愛されている作品ではない。好きな人は好き、嫌いな人は嫌いと、はっきり評価が分かれるところがある。その分断のポイントははっきりしている。

 お笑い芸人で大学講師でもあるサンキュータツオによると、この作品のファン層とは、「ワンピースを卒業したらEXILEに流れるような人たち」なのだという。自身がアニメオタクである彼は、1人で世界と向き合う『エヴァンゲリオン』には共感するが、仲間と一緒に世界を旅するONE PIECEには乗れない派だ。同じ立場を示すのが、アニメオタクのタレントの原田まりる。彼女は「友だちのいなかった私には理解できない世界」がワンピースだという。ONE PIECEは、おたく層とは相性が悪いのだ。

 精神分析医の斎藤環もこれに近い見解を示す。斎藤は、ONE PIECEの人気とは、「“ヤンキーの1人も出てこないヤンキー漫画”を極めた」ところにあると考えているという(『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』)。一見、海賊が登場するファンタジーの世界のようだが、登場人物たちの行動原理や美学は、反知性主義、積極行動主義に代表されるヤンキー的なものとして説明できる。読んでいる層は、基本的にはそれを受け入れられる層ということだ。

 漫画評論家の紙屋高雪も、バトルを物語の中心としながら主人公が強くなる過程を描かないONE PIECEは、ヤンキー漫画であると指摘している。『ドラゴンボール』の孫悟空は、修行で自らの戦闘力を向上させていく。だが、ヤンキー漫画で登場人物の喧嘩の強さは、気合いや根性といった「非科学的要素」で決定づけられるのだ。ONE PIECEは、後者であるというのが、紙屋の主張だ。

 このようにワンピースの影、もしくは根っこにある「ヤンキー性」を、多くの論者が指摘しているのだ。そうとわかれば、ONE PIECEがこれだけ売れるのは納得できる。ヤンキーは、一部のマニアの集合体であるおたくマーケットと違って、一枚岩に近い巨大なマスマーケットだ。浜崎あゆみもTSUTAYA書店もケータイ小説ドンキホーテもディズニーランドも木村拓哉もJポップのレゲエカバーCDも『○型自分の説明書』もエルグランドもラウンドワンも、基本的にはこの国のもっともマジョリティ=ヤンキー的消費層によって消費されているヒット商品である。

 確かに、ヤンキーと仲間というマッチングはしっくりとくる。ルフィたち海賊が「仲間」を重視するのは、暴走族を形成したり地域の祭りで盛り上がるヤンキー的な世界の特徴とよく似ている。次郎長一家のような渡世人の世界でも、仲間は重視される。親兄弟の杯を交わすというシステムは、仲間を家族レベルに強化するための仕組みである。海賊も渡世人も、境界的存在であり、国家権力によって守られない存在。仲間との絆とは、敵の多い世界で身を守る術、つまり安全保障上の理由によるものなのだろう。

ONE PIECEの組織論

 もうひとつ、ワンピース論でよく言われるのが、その組織の在り方についてだ。
 会社員にありがちなことだが、組織の一員であることが目的化すると、個々の意欲や仕事の質は低下する。だが、個々に目的を持って組織に参加しているルフィたちにそれはない。ルフィの目的は、海賊王になることだが、ゾロは世界一の剣豪になる夢を適えるプロセスとして、ルフィの仲間になっているし、ナミは、世界中の海の海図をつくるために海賊の仲間になっている。個々に意思決定を行うリーダーなしでも動ける「ヒトデ」的な組織体。ワンピースを組織論として語ると、だいたいこんなところだろう。
 以上で分析終了。というのでは、他人のふんどしで相撲を取ったに過ぎない。ここからは、もう少しだけその「支持される理由」について掘り下げてみた。

 ONE PIECEは、少年マンガの王道という評価がされることが多い。夢と友情で結ばれた主人公とその仲間たちが、敵を次々とやっつけていくという部分を観れば、確かにそうだ。だが、僕が本作に見いだしたおもしろかった部分とは、主人公と仲間たちではなかった。むしろ興味深かったのはむしろ敵の描かれ方だ。
 一見、種族・能力として強い敵を次々と描いているようにも見えるが、『ドラゴンボール』が、ナメック星人サイヤ人といったように、種族として敵の強さのインフレを起こしていったのとは違う。ONE PIECEにおける敵は、組織の構造として強くなっていくのだ。


ONE PIECEの敵に見る権力の派生の仕方

 

 ONE PIECEに登場する敵たちは、とても研究のしがいがありそうだ。
 犯罪会社のバロックワークスは、国境に縛られない現代の多国籍企業のような存在だ。幹部社員同士は顔も知らないという秘密主義は、部署が違えば何のプロジェクトなのかすら知らされないアップルのようだ。アップルは、スティーブ・ジョブズの辣腕ぶりだけが喧伝されるが、アップルが本当に独創的な製品を作り続ける理由は、実はこの秘密主義で結合された組織の部分が大きい。互いにやっていることを知らないからこそレベルの高い競争が生まれるのだ。

 そして、日常は平凡な人間の皮を被り、裏で権力を組織して、恐怖政治を行う海賊執事のキャプテン・クロ。彼の権力の掌握の仕方は、姿を隠してクメールルージュを組織した、カンボジアの独裁者ポル・ポトを連想させる。

 個人的に気に入った権力の在り方は、物語の前半に出てくる敵の「半漁人アーロン族」と王の座を捨てて海賊化した「ワポル」である。

 前者は、半漁人という種族としての優位性を持ちながらも、世界中の海を海図としてマッピングすることで権力の座を得ようとする組織である。いわばGoogleがマップサービスをもって世界政府化していく様子に似ている。

 後者は、国中の医者を追放し、政府お抱えの20人の医師「イッシー20」を組織化するワポルという権力者が統治する島のお話。人々は、国に忠誠を誓わないと医者にもかかれないのだのだ。実社会の国民皆保険制度はセイフティネットと考えられているが、考えてみればこれは医療の国家的独占をもって行う統治である。そんな具合に権力の在り方をついつい考えさせられてしまう。

 ルフィたちが戦うのは、単なる敵のグループではなく、こうした権力の掌握術や組織論に一家言を持つリーダーが生み出した権力による構造物である。それを、権力を掌握しないリーダー(ルフィ)によってつくられた組織(ルフィ一味)が、次々と撃破する痛快さこそが、この物語の人気の最大の理由なのではないだろうか。

 ワンピースの作者、尾田栄一郎は、決して王道マンガ家ではない。むしろ、変態的までの権力マニアだ。権力の現れ方、人民の掌握術などをかぎつける才能がすごい。彼がマンガ家になったからワンピースは生まれたが、別の職業に進んでいたらと想像すると恐ろしくもある。権力を批判するジャーナリストになっていたかもしれないけど、恐ろしい独裁者にもなれるかもしれない。もしくは、ブラック企業の経営者とか。
 そう、話は変わるが、「ブラック企業」なんて言い方もされるように、実際の社会において、身近な人を縛り付ける権力の主体とは会社である。非正規社員だの派遣社員だのと、働く側にとっては都合の悪いあれこれが押しつけられ、いつの間にか望んでもいないのに、僕らは悪の海賊一味の下っ端のような存在になってしまっている。

 現代の会社員たちは、モチベーションのほとんどを「生活のため」という目的に向けて働いている。だからこそ、「目的のため」「仲間のため」というモチベーションで動く、自由なルフィたちにあこがれるのだろう。

 

■現代のゴーイングメリー号?

 

 ピースボートというものを知っているだろうか? 「それまでの生活を抜け出したい」「何かを変えたかった」「自分を見つめ直す」または「世界を平和にする」などという「目的」を持った若者たちが集まって船で旅をするのがピースボートである。言ってみればピースボートは、現実社会のゴーイングメリー号(ルフィたちの海賊船。途中で壊れる)だ。


 社会学者の古市憲寿は、このピースボートに搭乗した海賊の一人である(かなり弱そうではあるが)。彼の書いた『希望難民ご一行様』という本は、その航海記なのだが、そこでの観察によると、ピースボートに乗る若者たちは船の旅の途中で夢(目的)への関心が薄まっていくのだという。それは、船の中で過ごす仲間との時間の楽しさの方が優先されるからだ。

 乗船者の多くは、そこで得た仲間と、旅の後も関係を維持して、当初抱いていた「目的」を忘れて、意識が低いまま生きていくという。つまり、仲間といると楽しいという「共同性」が「目的性」を冷却してしまうのだ。

 だけど、それも悪くないじゃないかというのが、古市の主張である。現実の日本においては、富や権力をひとつなぎにする宝=ワンピースは、先行世代の中高年層に独占されている。そんな何も持たない世代にとっての唯一の有効な武器、というよりも生活インフラに近い存在が「仲間」である。

 すでに強者と呼ばれる海賊たちが「偉大なる航路」に進出する中、若くて経験のないルフィたちは、後続者としてあとからその海域に向かわざるを得ない。彼らが航路を突破するために使えるのは、仲間という武器だけ。その構図は、現代の若者と同じなのだ。

「仲間」が、現代社会でかつて以上に価値を持ち始めている。ワンピースが流行るのは、そんな社会の姿と関係しているのかもしれない。




初出:初出『新日本人論』(2013年12月刊 ヴィレッジブックス)

 

新・日本人論。

新・日本人論。

 

 

未来予測小説を読む。堺屋太一『平成三十年』

平成三十年 (上) (朝日文庫)

平成三十年 (下) (朝日文庫)

 何も変わらない未来を予測したフィクション。これほど希望のないディストピアが他にあるだろうか。
 例えば、小松左京の『日本沈没』では、未曾有の大災害に日本が巻き込まれる様が描かれた。日本人が一致団結して立ち向かうこの小説で小松は絶望の中での希望を描いた。だが、これから取り上げる小説『平成三十年』は、大災害や戦争といった大状況は描かれない。代わりに描かれるのは、何も起こらない近未来。平穏無事な20年を過ごした日本の未来とは一体いかなるものなのだろうか。
 主人公の木下和夫は、情報産業省に務める官僚である。43歳、妻と17歳の娘とともに東京の都心・青山の公務員宿舎で暮らしている。青山というと都心の商業地域及び高級住宅街のイメージが強いが、未来の青山は、「新虎赤青」と呼ばれるアジア系移民が多い地域になっている。ディスカウントストアやパチンコ店、風俗店なども存在している。
 情産官僚である和夫は、貿易に関する数字を付き合わせた会議に出席する。日々の会議の描写からは、日本経済の苦境が伝わってくる。
 日本は既に貿易赤字国になって久しい。資源価格が「資源危機」を期に高騰し、「品質過剰」な日本のものづくりは競争力を失ってしまったのだ。国内消費も落ち込んでいる。少子高齢化が進んだこと、さらに高い消費税率の煽りもあり、全体の消費が押し下げられてしまっている。
 日曜の朝、妻にはゴルフに行くと告げて家を出た和夫は、宿舎の玄関で携帯端末をコントロールして駐車場の車を呼び出す。「車の方が自動的に迎えに来る」仕組みになっている。車は駐車場の充電施設でプラグ充電も可能なハイブリッドカーである。和夫が向かった先は、両親の住む郊外のニュータウン。役所勤めゆえ忙しく、日頃両親に接する機会もないので、雨で中止になったゴルフの代わりに顔を見せに来たのである。
 両親が住む川崎インターからクルマで15分の郊外ニュータウンのマンションには、人や車の動きがない。父親は、ここが寂れてがらんどうの「元ニュータウン」になってしまったことをなげく。かつて懸命に働き、手に入れたマイホームだったが、いまはゴーストタウンに等しい。
 ここに描かれる日本は、現実の今の日本とほぼ変わらない世界である。実は、この小説が新聞連載されていたのは、1997年6月1日から1998年7月26日にかけて(単行本刊行は少し間を置いた2002年)。つまり本作は20年前に書かれた20年後、つまり現代を描いた近未来フィクションなのだ。
 当然、現代に生きる立場として、この小説の答え合わせをしたくなる。本作品の著者は、元通産官僚、経済企画庁長官も務めた堺屋太一である。堺屋の未来予測を当たり外れで論じるなら、かなりのところ当たっている。
 大きく外した部分は一箇所。長期デフレを予測していないところだ(小説内では、物価も賃金も3倍に上昇)。これは土台無茶な指摘。現在の20年デフレは、どんな経済学者でも予測はできない歴史的異常事態である。また、本書の予測のハズレを指摘したところで、それもまた小説の本質とは離れる。むしろ読み込むべきは、堺屋が踏み込んで書いた未来の細部である。
 この世界では、不況によって病院の倒産閉業が増えたため、その経営保護のため新規参入が厳しく規制されている。職にありつけない医者も多いが、医師は国家の元で庇護され補助金が与えられている。「医療減反」政策である。既得権化した医師の平均年齢は64歳。彼らは最新医療に対する理解もなく、新薬についての知識も持たない。国内の製薬業界は衰退してしまった。新薬を開発しても、医師たちがそれを購入しないためである。
 悪しき官僚制度、保護政策が産業を死に追い詰めようとしている社会。堺屋が描く近未来(2017〜2018年)とはそういう性質のもの。作者本人は「こうあってほしくないが、最もありそうな未来像」という呼び方をしている。つまりはディストピアである。
 あらためて、簡単にあらすじを説明しておく。主人公は、官僚の和夫だが物語の軸になるのはベンチャー企業出身の改革派大臣織田だ。織田が和夫ら優秀な官僚を巻き込み、日本的な官僚機構そのものにメスを入れる大改革に邁進する。
 織田の鶴の一声で誕生する官僚制度改革のための機構「日本改革会議」が発足する。ただそれを構成するメンバーの平均年齢は、70・3歳。ディストピア! この改革運動は、小説終盤に内側から崩壊していく。
 いちいちキッチュ(悪趣味)。そこが読みどころだ。
 例えば「パソエン」。「パソエン」は、カラオケの次に流行しているデジタルエンターテイメント機器として登場する。ヘッドホン型端末と全身の動きを読みとるセンサーを取り付け、有名スポーツ選手やフラメンコダンサーなどになりきる遊びだ。マスコミの目が光る近未来では、赤坂の料亭での芸者遊びなどはもってのほかになっており、官僚たちはこの「パソエン」接待を楽しんでいる。さらに「パソエン」は、日本の知的財産分野での輸出品目の筆頭商品でもある。
 もうひとつが「Jポスト」。郵便局は公社化され「Jポスト」という名になっている(民営化まではしていないので、現実が先行している)。過疎化が進んだ山間地域では、このJポストが、日常品の販売配達から宅配便まであらゆるユニバーサルサービスを請け負う。つまりは何でも屋。ただし、ここでで働く多くは高齢者。人々は高齢者に重いモノを持たせることにも慣れてしまっている。
 これら「パソエン」「Jポスト」のネーミング、さらには、この世界での人びと生活そのものまで含めてキッチュだ。官僚がパソエンに興じる様などは醜悪ですらある。
 この辺りが意図的な醜悪さ(風刺、批評性)なのか、そうではなく統計データに忠実な未来予測の結果なのか、判別は難しい。むしろ、その紙一重の部分こそがおもしろさだ。
 本小説は、決して”冴えた小説”ではない。描かれているのは、”冴えない国”の”冴えない未来”だ。それゆえ、現代のこの国のキッチュな戯画として成立しているのだ。

 

 初出:本の雑誌2018年

セナと聖子で一瞬だけ垣間見た丘の上の景色

 かつて日本が経済大国だったことは、すでに忘れられて久しい。しかし、この20年の停滞を迎える直前の日本は、世界と肩を並べる夢を見ることができる坂の上に一瞬だけ立っていたことがあった。
 太平洋戦争における敗戦の理由を「ものづくり」、もっと正確には生産技術にあることを思い知ったこの国のエンジニアたちは、戦後に生産管理の技術をアメリカに学び、日本は約30年の月日をかけて工業製品の分野で世界と肩を並べる存在となっていく。
 1970年代後半から、「日米貿易摩擦」「ジャパン・バッシング」の時代を迎える。日本の貿易における優位の理由を通貨にあるとしたアメリカは、日本に事実上の円高を引き受けさせた。1985年のプラザ合意である。それでも「メイド・イン・ジャパン」の侵攻は食い止められなかった。時の首相である中曽根康弘は「アメリカ製品を買いましょう」と、デパートで買い物をするパフォーマンスを披露した。当時の日本は、世界一の経済大国であるアメリカと肩を並べていると強く実感していた。
 そんな中で、日本企業は世界で影響力を持つ存在になっていた。
 `83年にF1復帰を果たしたホンダは、1980年代半ば以降のF1界をリードする存在となっていく。そして、1987年にアイルトン・セナ中嶋悟をドライバーに擁したロータスにエンジンを提供。そらに、翌年、セナがマクラーレンに移籍を果たすと同時に、ホンダはマクラーレンにエンジン提供を始め、あの栄光の「マクラーレン・ホンダ・セナ」体制が誕生するのだ。
 この頃の日本企業の奮闘を、いまの視点で振えると、おもしろい光景が見えてくる。
 ホンダと並ぶメイド・イン・ジャパンの雄であるソニーは、`88年にアメリカの大手であるCBSレコードを買収、翌年にはコロムビア・ピクチャーズを買収した。工業製品でのし上がったソニーは、ここに来てソフトウェアでの世界戦略へと路線を転向したのだ。
 この頃から世界経済をリードする存在が、工業から、サービスやエンターテインメント、そして金融へと転換しようとしていた。わかりやすく言うと、世界経済の中心は、ハードウェアからソフトウェアへと転換したのだ。
 この時代においてソニーは、日本発のソフトとして「SEIKO」を売り出しにかかる。そう、あの松田聖子だ。ソニーは、買収したCBSの所属グループの人気アイドル、ニューキッズ・オン・ザ・ブロックのメンバーでデュエットという抱き合わせを施した上で、アメリカ市場に売り込んだのだ。
 ナンバーワンのソフト企業になったからには、同国のトップ歌手の松田聖子を売り出したい。当然の期待である。日本で通用する歌手が、世界で通用する。そんな想いが、当時の日本人が見た夢だった。だが失敗。ソニーのソフトによる世界戦略は成功したが、日本人の歌手の発進という試みには敗れた。当時のソニーの躍進を支えた歌姫は、SEIKOではなく、マライア・キャリーが担うことになった。
 一方、同じように世界市場におけるホンダの試み、つまりF1という究極のモータースポーツの世界において成功を収めた。それもやはり日本人である中嶋悟ではなく、アイルトン・セナによって成し遂げられたものだった。
 「マクラーレン・ホンダ・セナ」体制の大成功は、日本が世界の高見に立てた瞬間である。セナは、日本が世界に肩を並べようとした時代の頂点で、オールジャパンの夢を背負ったヒーローだった。マイク・タイソンマイケル・ジョーダンは他国のスターだが、日本人にとってのセナは特別な存在だった。
 ただし、アイルトン・セナが見せてくれたその高見は「垣間見る」ことしかできないものでもあった。
 アクティブサスペンションという、コンピューターの制御によって車体の姿勢をコントロール技術が導入され、グランプリの勝利を握るのは、エンジン性能やドライバーの技術ではなく、コンピューターであるという時代がやってくるのだ。
 ホンダのF1撤退、そしてセナ時代の終わりは、こうしたソフトウェア時代の到来とともに訪れた。
 セナがF1の舞台で活躍した1987〜1994年は、日本では、バブル経済の時期、そしてそれが崩壊したが、まだ日本が経済大国であると人々が信じられていた時期に当たる。
 セナが死んだ翌年の1995年、日本は阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件という大規模テロ事件に直面し、「これまでどおりにはいかない」ということを突きつけられる。デフレに突入し、本格的な長い不況が始まるのは、この直後のこと。
 「マクラーレン・ホンダ・セナ」の全盛期である1988、89年の日本の1人当たりのGDPランキングは、世界3位にイチしていた。その後、2000年代以降、10位以下を低迷することになる。
 さて現代。世界一の販売台数を誇る自動車メーカーは日本に存在する。サッカーでも野球でも、日本人が世界の一流チームで当たり前に活躍する時代。経済大国としてのプレゼンスを失う一方で、日本は個別の戦いで勝利を収められる国になった。世界は、かつてよりも複雑になった。そして、日本が世界と肩を並べることに、誰も夢をみなくなったのだ。(加筆)

 

初出:『Number』2014年5月 アイルトン・セナ特集