クリスティーと観光

 今回は、全世界70ヶ国で翻訳され、累計20億冊以上を売り上げている世界ナンバーワンの大ミステリ作家、アガサ・クリスティーの話を観光と結びつけて論じてみたい。
 前号では、旅情ミステリが、この国の国土開発、均衡ある発展に沿って生まれ、いまだに生きながらえている分野であることに触れたが、クリスティーを語る上で、もっとも重要なキーワードもまた「旅情」である。
 クリスティーを、あえてトラベルミステリという分野の書き手として読んでみる。これは、まったく矛盾しない読み方である。ヨーロッパとアジアを結ぶトレイン・ミステリの『オリエント急行殺人事件』、観光地の船上で殺人が起こる『ナイルに死す』など、クリスティーの有名作品、人気作品の多くは、旅情が大きな役割を占めている。
 ここでは彼女の作品に登場する旅、そして彼女が人生の中で経験した旅、そしてその時代背景などを交えて論じていく。
 クリスティーは、私生活において2度の結婚をしているが、その両方の結婚は旅と結びついている。1度目の相手であるアーチボルトとは、世界一周旅行に出かけた。そして、2度目の結婚相手であるマックスの職業は考古学者だった。クリスティーは、彼のメソポタミア発掘旅行に同行している。これらの旅やそこで出会った人々が、その後の作品の題材になっているだ。
 アガサ・クリスティーは、1890年生まれである。同じ年に生まれた著名人に、コメディアンのグルーチョ・マルクスや軍人から米大統領になったドワイト・アイゼンハワー自民党55年体制発足時に総裁代行委員となった大野伴睦らがいる。
 同じ年に生まれた作家ということになると、ロボットという言葉の生みの親と言われる知られるチェコの劇作家のカレル・チャペックがいる。クリスティーは1920年に、デビュー作となる『スタイルズ荘の怪事件』を刊行し、チャペックは代表作の『R.U.R.』を同じ年に書き上げている。この2人が同じ年で、同じ時代に活躍したというのは、少し意外な気がする。アガサは、いまでも現役として読まれ続けている作家だが、チャペックは古典の作者で、歴史上の存在のように感じられるからだ。

スタイルズ荘の怪事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

■クリスティー少女時代の19世紀富裕層的旅

 クリスティーの人生は、そもそも幼少時代より旅の連続だった。
 彼女は貴族の出身ではないが、かなり裕福な家の出である。アメリカ人の祖父は裸一貫から事業主として財産を築いた人物だった。ただし、その財産は、彼女の父親の代に、大きく目減りした。アガサが6歳の頃、生まれ育ったアッシュフィールドの大きな屋敷を維持できなくなるという事態に陥る。その背景には、19世紀末にイギリスが経験した長期に渡る不況があったようだ。1929年の世界恐慌が起こるまでは、大恐慌とはこのときのイギリスの不況のことを指したという。この時期、アガサの父は、屋敷の売却を避けるためとある手段に出る。屋敷を一時、金持ちのアメリカ人に貸し出すことにしたのである。
 屋敷を貸したクリスティーの家族は、家財の多くを持って長期旅行に出る。別の家に越すのではなく、そのまま旅に出るという辺りが、富裕層らしいの発想である。一家は、南フランスのホテルに滞在することになった。季候の良い南仏旅行は、父親の療養を兼ねたものでもあった。一九世紀後半には、貴族や富裕層が、南仏で療養を兼ねた長い旅行を楽しむためのリゾート地が存在した。
 この6歳のときの旅行が、クリスティーにとって最初の旅行の記憶である。彼女の家族は、英のフォークストンで船に乗り、英国海峡を横断する。仏のブローニュからは、寝台列車でポーに向かった。駅からホテルは乗合馬車、18個の荷物は別途運ばれたという。乗り物も荷物の量も、極めて19世紀的であり、貴族階級的な旅である。アガサの家族は、このポーのホテルが暑くてすごしにくくなると、また別の避暑地に住む場所を求めて移動した。
 とても屋敷の維持すら適わない没落した家の旅行とは思えないが、クリスティーの小説の中にも、まったく貧乏感のない没落した富裕層はよく出てくる。きっと、そういうものなのだろう。庶民に比べるとまだまだリッチだったのだ。
 この南仏での滞在中、彼女は一週間だけパリ滞在を経験している。少女時代の彼女は、パリという大都会にとりたてて関心を示すことはなかった。ただ、街の中を自動車が走っていたことに興味を示している。そう、パリの街中をまだ馬車が走っていた時代のことなのだ。当時は、エッフェル塔が完成して、まだ7、8年といった時期のことだった。

■エジプト、中東、オリエンタリズム世界との接触


 彼女は、その10年後に、再びパリを訪れている。当時彼女は、声楽、オペラを志ざし、音楽学校への留学を果たしていた。この留学も、彼女の家庭が裕福だったことの裏付けである。だが、この留学は、18ヶ月目で断念し、彼女は人生最初の挫折を味わった。
 むしろ、このパリ留学で特筆すべきは、留学の期間に母親と連れだって出かけた3ヶ月に渡るエジプト旅行(1906年)だろう。
 この時の彼女は、やはり歴史的遺物やナイルの自然などには目をくれず、現地で手に入れたドレスを着て、週に5日間もホテルで開催されているダンスパーティに繰り出していたという。当時のエジプトは、スエズ運河の権利保護を巡り軍事介入していたイギリス軍によって事実上統治されていた時期だ。
 クリスティーの自伝にも、英の軍隊が3,4連隊常に駐留しており、その妻や娘たちが多くカイロに住み、毎夜パーティが開かれていたという記述がある。さらに、この当時のカイロでは、高級のドレスが手に入ったという。単に、軍の統治下であるだけでなく、ロンドンの社交界のミニチュア版が、当時のカイロに展開されていたのだ。
 イギリスが、当時これだけの軍隊をエジプトに投入していたのは、主にはスエズ運河という交通の要所がこの地にあったからである。また、当時のエジプトの宗主権を持っていた名目上の宗主国オスマン帝国に、イギリスは石油を求めて進出していた。
 20世紀初頭は、石炭から石油へというエネルギー転換が行われようとしていた時代である。1908年のペルシャでの油田の発見を皮切りに、中東ペルシャ湾沿いに次々と油田が発見されると、ヨーロッパ列強による中東を巡って争いを行う時代が始まった。1914年に始まる第一次世界大戦も、英仏列強によるオスマン帝国の分割を通じた中東の石油利権競争だった。
 本格的な交通・輸送の時代が到来し、単に多くの乗り物が活躍するようになっただけでなく、第一次大戦以降、石油で動く飛行機、艦船、戦車といった近代兵器が運用され始める。クリスティーが描く小説の舞台となった1920〜30年代は、まさにこうした時代の後に続く、めざましい交通技術の発達、そして、欧米列強のオリエンタル世界への介入の時代だった。彼女の作品の舞台にエジプトや中東が多く選ばれ、登場人物にアフリカ冒険帰り、中東やエジプト帰りの考古学者らが多く登場する背景もそこにある。
 クリスティーと同時代、主に1930年代に流行していたベルギーのコミック作家ベルジュの手による『タンタンの冒険』シリーズがある。これは、主人公の少年タンタンが、クルマ、船、鉄道、飛行機など、あらゆる乗り物に乗ってオリエンタル世界を股にかけて冒険を行うという内容のコミックだった。
 クリスティーとタンタンの冒険は、ともに、クルマ、船、鉄道、飛行機などあらゆる乗り物が登場し、オリエンタル世界を主要な舞台にしているという共通点を持っている。当時のヨーロッパにおける交通技術の発達と、目新しかったオリエンタル文化への興味が、この時代の文化産業に反映しているのだ。
 観光も、こうした流れとともに勃興した新しい産業だった。中でも注視すべきは、エジプトだ。1922年に英の考古学者ハワード・カーターによってツタンカーメン王の墓と財宝が発見されると、エジプトは世界の注目を浴びるようになり、人気の観光地として注目されるようになっていく。

■航空機の発達とクリスティーの世界一周旅行

 作品の中には、乗り物を多数登場させておきながら、クリスティーはあまり乗り物が好きではなかったようだ。人一倍船酔いはするし、飛行機は自分自身が利用する移動手段としては考えていなかった。彼女が好んだのは、パリからイスタンブールまで、夜通し走り続けるオリエント急行であり、護衛兵のついたらくだの隊列で砂漠を長時間移動する旅だった。彼女は、特に無味乾燥なのが苦手という理由で飛行機の旅を嫌っていた。
「ふつうの旅行手段としての航空会社ができたことぐらい、わたしの生涯でがっかりしたことはなかったように思う。人は飛行機を鳥の飛行になぞらえて夢みていた——空中を自在に飛びまわる爽快さである。ところが今や、飛行機に乗り込んで、ロンドンからペルシャへ、ロンドンからバミューダへ、ロンドンから日本へ飛ぶ退屈さを思うとき、これ以上の無味乾燥なものがあるだろうか?」と書いているくらいだ。
 だが、クリスティーの最初の夫アーチー・クリスティーは、飛行機乗りだった。世界で最初に空軍を持ったのはイギリスだが、まさに彼は、第一次大戦時に空軍の前身である航空部隊のパイロット(階級は下級将校)として第一次大戦を戦ったのだ。
 第一次世界大戦が終わった翌年、クリスティー夫妻に娘が誕生した。彼女の作家デビューは、その翌年のことだ。複数の出版社にたらいまわしにされた後に刊行された『スタイルズ荘の怪事件』の初版2000部で、受け取った印税収入もわずかな額だった。
 一方、夫のアーチーは、空軍を除隊した後、大英帝国博覧会使節という仕事を得る。彼はその使節団の一員として、南アフリカ、オーストラリア、カナダという英連邦諸国を巡る世界一周の旅行に出ることになった。そこには、まだ小説家としての仕事が本格化する前の妻アガサも同行することになる。
 この世界一周旅行は、一等の船室、客車を使ったぜいたくなものだったようだが、全行程を船と列車によって移動するという非常に時間のかかる旅だった。旅客航空機による観光が当たり前となる時代は、もう少し先のこと。
 大戦間期は、第一次大戦で急速に発展した航空機の技術が、民間転用され、航空郵便や旅客航空ビジネスが発展した時期である。第一次世界大戦を経て、誰の目にも次の戦争では航空機が主役になるということが明らかになった。各国が、自国の航空産業を積極的に助成したのも、起こりえる次の戦争に備えるためでもあった。
 ただし、イギリスの民間航空業の発展は立ち後れる。大戦後のイギリスは、基軸通貨だったポンドの地位低下などの要因で国際的な牽引力を失っていく。特に足かせとなったのは、大英帝国が誇った世界中に存在する莫大な領土だった。むしろ、その領土を空路として結びつけること、貿易、物流などの量を確保するべきだったのが、当時のイギリスは、航空運輸、航空旅客の時代の到来を見抜くことのできず、地位低下を自ら引き寄せてしまう。
 イギリスが経営が民間航空会社4社を合併することで、国営のインペリアル航空(のちのBOAC、ブリティッシュ・エアウェイズ)を誕生させるのは、クリスティー夫妻が世界一周に旅立った翌年の1924年のことである。

■航空機を舞台とした密室殺人

雲をつかむ死 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 飛行機嫌いのクリスティーだが、旅客航空機の中での密室殺人ものを一作だけ残している。 1935年に著した『雲をつかむ死(DEATH IN THE CLOUDS)』という、旅客機の室内で殺人が起こるエルキュール・ポアロものである。
 乗客が座席に座ったまま動かない旅客機の旅では、密室殺人はきわめて難しい。『雲をつかむ死』は、そこに挑戦した意欲作だが、トリックの意外性では、他のクリスティの傑作と呼ばれるような作品群に比べるとかなり劣る。だが、ミステリ要素以外の部分、むしろ旅ならではの醍醐味などを重視する旅情ミステリとして読むには、おもしろい作品ではある。
 探偵であるポアロではないもうひとりの主人公のジェーンは、孤児院の出身の美容師見習いという若い女性である。その彼女は、富くじで100ポンドを得て、休暇を取ってフランスの海岸沿いのリゾートに出かけるのだ。そこには、ロマンスもあった。リゾートのカジノで知り合った若い男と、帰りの飛行機で偶然一緒になったのである。事件は、その飛行機の中で起きる。パリのル・ブルジェ飛行場からロンドンのクロイドン空港に向けて飛び立った21名の乗客を乗せた定期旅客機の中で、ある婦人が毒針で刺されて殺されたのだ。
 ヒロイン目線で進むこのミステリは、リゾートでのバカンスがあり、ロマンスがあり、殺人事件のミステリがあり、自分も容疑者にされるサスペンスもあるという冒険譚である。そして、彼女は最後には、ポアロの手助けによって発掘旅行の助手という仕事を見つける。
 庶民のヒロインが、幸運を手にして旅に出て、新しい人生を手に入れる。そう、本作は本格ミステリ小説ではなく、旅をモチーフにしたロマンス小説なのだ。

オリエント急行と第2の結婚

 飛行機の次は、鉄道に注目してみたい。
 ちなみに、クリスティー作品の最高傑作は、世間的にも『オリエント急行の殺人』ということになるだろう。クリスティーが初めてオリエント急行に乗るのは、アーチーと離別(1928年)したのちの1930年のことだ。ちなみに彼女の離婚の理由は、彼女の旅行中の夫の浮気だった。当時、彼女は『アクロイド殺し』(1926年)が話題となって知名度が上がり、すでに専業作家にもなっていたし、売れっ子ミステリ作家としての地位も安定しかけていた。
 当初、クリスティーはジャマイカ(当時英国領)への旅行を予定していたが、友人の話を聞いて急遽バグダッドへと行き先を変える。当初、バグダッドへは船でしか行けないと考えていた彼女だが、地続きなので鉄道を使って行くことができると気付き、急遽考えを変更したのだ。船酔いがひどかった彼女は、船旅はなるべく避けたかったのだ。
 彼女が行き先を変えた理由はもうひとつあった。それは、「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」誌で見たメソポタミアの発掘物の記事を読み、考古学に惹かれていたというものだった。
 オリエント急行でのバグダッド行きの旅行は、『オリエント急行の殺人』(1934年)『メソポタミアの殺人』(1936年)という、2つのエルキュール・ポアロ・シリーズとして作品に活かされることになる。
 さて、オリエント急行とは、基本的にパリとコンスタンチノープルイスタンブール)を結ぶ鉄道で、クリスティーが利用した大戦間時には、王侯貴族、上流階級、富裕層などの一部特権階級に限られて利用されるものだったという。客車はすべて豪華な寝台車両だったようだ。クリスティーがこの列車に乗ることができたのは、すでに彼女が本が売れている人気作家だったからだ。ちなみに、パリ・コンスタンティノープル間の一等の料金は、当時の使用人の給料約1年分だったという(『オリエント急行』窪田太郎、新潮社)。
オリエント急行の殺人』は、豪雪のため立ち往生した列車の中で、12箇所を滅多差しにされた富豪の死体が発見されるという、クローズド・サークルもののミステリ小説だ。

 

オリエント急行の殺人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)


 全員がアリバイを持っている不可思議な状況に挑むというミステリ、トリックの部分が秀逸な作品ではあるが、コンスタンチノープルから、大陸を横断する鉄道という設定が生む雰囲気も作品を彩っている。
 本邦の旅情ミステリブームの先駆けとなった西村京太郎の『寝台特急殺人事件』をあらためて読むと、犯人が誰であるかという部分(なので秘密)において、オマージュ要素の強い小説であることに気がつく。これ以外にも『オリエント急行の殺人』が、以後の旅情ミステリに与えた影響は極めて大きい。
 ちなみに、クリスティーがこのオリエント急行に実際に乗った際には、コンスタンチノープルから先のバグダッドに滞在しており、さらにチグリス川とユーフラテス川が注ぐペルシア湾への河口近くに位置するウルへにまで足を伸ばしている。
 彼女がこの旅で得たものは、『オリエント急行の殺人』『メソポタミアの殺人』の着想だけではなかった。そこで2人目の夫である考古学者のマックスと出会ったのだ。この年、彼女は40歳を向かえていたが、夫になるマックスは27歳だった。

■本格2時間ミステリとしての『ナイルに死す』


 クリスティー作品の中で、旅情ミステリの要素と本格トリック要素がうまく融合した傑作と言えば、『ナイルに死す』(1937年)である。クリスティーは、10代の頃にもエジプトに出かけているが、40歳前後にもまたエジプト旅行に出かけている。『ナイルに死す』で描かれるのは、このときのクリスティーが見た第一次大戦後に独立したのちののエジプトである。
 1919年にエジプト革命が勃発し、1922年にエジプト王国が成立。前出のツタンカーメン王の墓が発見されたのもこの1922年のことだ。とはいえ、独立後のエジプトは、まだイギリスの実効支配下に置かれていた。イギリス人が我がもの顔でエジプトに駐在する様子は、作品中の至るところから伝わってくる。
 本作に登場する乗り物は、ナイル川を遡る観光船である。一等船室に乗り合わせるのは、新婚旅行に来ている若き美貌の資産家とその夫、ドイツ人医師、若い貴族階級出身の共産主義者、ロマンス小説専門の中年女性作家、大富豪の老貴婦人、弁護士である。クリスティーの小説ではおなじみの、産業革命以降に登場した中産階級(中小工業者、自作農、医師、弁護士、ホワイトカラーなど)に属する人々。二等に乗るのは、そのメイドや付き人などである。
 この小説が描くのは、第二次世界大戦前の世界においても、まだ時間的余裕を持って観光にいそしむ人々である。つまり暇とお金がある人々は、戦争が近づいた世界の情勢を気にもとめてなかったのだろう。

ナイルに死す (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)


 『ナイルに死す』には、2人の女性が登場する。大富豪の娘リネットと庶民の娘ジャネットである。2人は親友だったが、リネットがジャネットの彼氏のサイモンを奪い、結婚までしてしまうことで仲はこじれる。憎しみに燃えるジャネットは、リネットとサイモンのエジプトでの新婚旅行を邪魔すべく、2人の後を執拗に付けまわす。
 この時点で、十分にテレビの2時間ミステリらしい。大富豪の娘が賀来千香子で、庶民の娘が森口瑶子、賀来と結婚するのは永島敏行。そんなキャスティングがしっくりきそうだ。
 いつ事件が起こってもおかしくないという不安定な空気の中、イギリスからの観光客の一行は、しっかりとエジプトの観光地を巡る。殺人が起こるのは、大瀑布を観に行く豪華観光船の中である。やはり、これもクローズド・サークルものである(乗り物というのは、クローズド・サークルという状況を生み出すための装置だ)。
 ここでネタばらしはしないが、この事件の顛末は、後味としては悪くないものだ。なぜなら、美しい恋愛ドラマとして事件が収束するからだ。いろいろドロドロしたし、死者も出たけど、明るい未来につながる線も見えて、まあよかったという金田一少年の事件簿的な大団円といったところだ。
 観光ガイド的要素、ミステリ要素、そして恋愛ドラマ要素。この配分がとてもうまくいっている本作は、旅情ミステリ史に残る傑作である。日本で2時間ドラマ化する際には、グルメシーンを付け加えれば完璧だろう。
 余談だが、この小説の舞台として描かれ、アガサ自身も逗留したアスワンに位置するオールド・カタラクトホテルには、彼女の名前を借りた「アガサ・クリスティー・スイート」という部屋がある。一泊約100万円だという。

 

■階級社会から大衆消費社会へ


 ヴァン・ダインの二十則と呼ばれるミステリ小説の禁忌事項のひとつに「不必要なラブロマンスを付け加えて知的な物語の展開を混乱させてはいけない。」というものがある。『雲をつかむ死』にせよ『ナイルに死す』にせよ、クリスティーはこれをあえて破っている。ちなみにクリスティは、ロマンスを前面に出した非ミステリのシリーズも書いている。
 交通にまつわる技術の発展、ヨーロッパのオリエンタル世界への興味。こうしたものを背景に、20世紀初頭は観光産業が台頭していった。そんな時代に作家として活躍したクリスティーは、ミステリを書きながらも、その背景にはロマンスや冒険といった、旅に付随する魅力の要素を作品の中に込めた。当時の一般大衆(つまり彼女の本の読者)にとってはおいそれとは手の届かない憧れのものとして旅情を取り扱ったのだろう。ただし、そんな旅が手の届くものになるかもしれないという予感もここには秘められている。
 クリスティー作品で幾度となく描かれるシチュエーションが、上流階級と中産階級、そして一般庶民がひとつの乗り物に乗り合わせ、その中で殺人事件が起きるというものだった。クリスティーが作品を生み出していた20世紀前半とは、上流階級が没落し、新富裕層として中産階級が台頭した時期だ。そして、その他の人々が生産者として、消費者として社会の中心を担う大衆消費社会が生まれようとしていた時期でもある。
 まだぎりぎり上流階級、中産階級のものだった観光旅行も大衆消費社会の中で、特別なものではなくなっていく。その転換期の世界をクリスティーは描いていたのだ。

 

初出『genron etc』2013.5 #7『よいこのためのツーリズム 第3回』

 

ゲンロンエトセトラ #7

ゲンロンエトセトラ #7

 

 

アガサ・クリスティー自伝〈上〉 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

アガサ・クリスティー自伝〈下〉 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

アガサ・クリスティーの大英帝国: 名作ミステリと「観光」の時代 (筑摩選書)

アガサ・クリスティーの大英帝国: 名作ミステリと「観光」の時代 (筑摩選書)

 

 

Atariとスピルバーグ

アタリショックとは?

先日スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』を観た。

これには前もってAtariのゲームの知識が必要になるのだが、僕の場合は、たまたま『アタリ:ゲームオーバー』(2014年)というドキュメンタリー映画を観ていたので少し複雑なことになった。この映画実は、ちょっと前まで、Netflixで見られた。

ATARIは、1970年代を席巻したアメリカのビデオゲーム会社。だが彼らがAtari2600で築いた家庭用ゲーム市場は、1本の伝説的”クソゲー”によって崩壊してしまう。これが世に知られる「アタリ・ショック」である。ネットの世界には「アタリ・ショック」ポリスも少なくないため要注意の用語である。細かくいうといろいろあるくらいにとどめておく。

当時のゲームの小売店は、売れずにもてあました有名映画の便乗ゲームを店頭でたたき売りした。それによってアタリのゲーム全体の魅力が失われ、それを機に市場そのものが崩壊した。話題の大作が空滑りすることはゲームではよくある。

伝説的クソゲースピルバーグお墨付き

さて、その伝説的なまでに売れ残ったビッグタイトルとは、『E.T.』。スピルバーグを代表するあの映画だ。便乗商品とは言え公式にライセンスを取得したゲームソフトで、一応スピルバーグ自身も確認してお墨付きを与えている場面が映画でも使われている。

レディ・プレイヤー1』では、1970〜1980年代のゲームへのオマージュがたくさん登場し、Atari2600用のゲームが世界を救う重要な鍵となる。どのゲームタイトルにキーが隠されているかをこの世界の住民たちは探る。観ている側としては、これは『E.T.』と勘繰ってしまう。まあ実際に、『ET』のゲームの存在はまるごとスルーされるのだが。

映画『アタリ:ゲームオーバー』では、このゲーム版『E.T.』がいかに出来損ないだったかが検証される。自キャラのE.T.を動かして敵に捕まらないように宇宙船の部品を集めていく内容。敵に捕まると蟻地獄のような穴に落ち、その度に穴から這い出す単調な作業を繰り返えさないといけない。

オールドゲームマニアたちの手のひら返し

一方、物語が進と、埋められた場所も特定される。『E.T.』のゲームが大量廃棄されたであろう場所では大がかりな発掘が進む。それお、聞きつけたゲームマニアたちも見物するために集まってくる。ついでに『E.T.』のゲーム開発者ハワード・スコット・ウォーショウもかけつける。彼は現在は心理療法士として生きている。伝説のクソゲーの制作者のレッテルが張られ、ゲーム業界にはいずらかったのだ。

『アタリ:ゲームオーバー』のエンディングは涙なしでは観られない。集まったゲームファンたちは、クソゲーである『E.T.』への愛情を語り始める。「内容はともかく志は高いゲームだった」「そもそも6週間の開発期間でいいゲームはつくれなった。仕方ない」「アタリがだめになったのは『E.T.』だけのせいじゃなかった」といった具合。当時のアタリの他のゲームだって結構ひどかったのだ。誰かひとりが悪かったという話じゃない。「アタリ・ショック」というゲーム全体を覆っていた呪いが、30年の月日を経て成仏した瞬間である。いい映画だった。

スピルバーグは1980年代のゲームへのオマージュ映画を作りながら、アタリの『E.T.』をスルーした事実について、何かコメントをすべきだと思うけど。