『シャコタン☆ブギ』のジュンちゃんとジョン・ミルナーの共通点

 


シャコタン☆ブギ』(1984〜1995年)は、ヤンキー漫画、走り屋漫画の側面もあるが、基本的には、80年代の地方都市の若者たちの典型像を描く青春漫画である。

町の中心にロータリーがあって、そこにナンパ目的のクルマたちが列をなしている。地方都市ではお馴染みだった光景である。そんな風景がこの作品には登場する。80年代、まだ日本の地方都市にも活気があった時代。

主人公たちは、四国の中堅都市の高校生コンビ。見栄っ張りでの威張り屋の先輩ハジメと、その後輩で、自分がイケメンであることに自覚のないコージのコンビ。ハジメは、高校をダブっているので18歳でクルマを持っている。農家を継がせたい親が買ってくれたトヨタソアラである。17歳のコージの愛車は、ヤマハの50ccのスクーター・チャンプである。

2人のナンパとクルマとバイクと青春。地方都市の繁栄への翳りも、ちらほらと描かれていく。街の中心が郊外を走る海岸道路に移ってしまい、街中から若者が減りつつあるというくだりが描かれたり、また、車に金をかけて改造する走り屋なんてもう流行らないということもやや自覚し始める場面であったり。

シャコタン★ブギ(1) (ヤングマガジンコミックス)

主人公たちが憧れる"ジュンちゃん"というキャラクターが一番好きだ。ジュンちゃんは、語りづがれる伝説クラスの走り屋。腕のいい自動車修理工でもあり、ケンカが強く、後輩の面倒見もよい。とても頼りになる存在で、女性にもモテる。だが、どこか哀愁も漂っている。このキャラクターにはモデルがいる。"アメグラ"のジョン・ミルナーである。

ジョージ・ルーカス出世作である映画『アメリカン・グラフィティ』(1973年)の舞台は、西海岸の田舎町。金曜ごとにクルマで街に繰りだす若者たちが、ずっとナンパしたりしながら街を流している様子は、ルーカスがハイスクール時代を過ごした小さな町そのものだった。そして、この町の若者たちに慕われる"ボス"が、エンジン剥き出しの古いフォードに乗るホットローダーがジョン・ミルナーである。

ミルナーもゼロヨンレースでは無敵。不良たちだけでなく、まじめな主人公カートや生徒会長のスティーブでも一目置く存在。だが哀愁がただよう。「この街も昔はもっと騒がしかった」というのは、彼が町のはずれの自動車廃棄場でミルナーがつぶやく台詞だ。

アメリカン・グラフィティ [Blu-ray]

ジュンちゃんとジョン・ミルナーが背負っている哀愁には、正体がある。小さな地元の町の衰退。彼らは、町そのものを背負うキャラクターだ。

かつて若者たちが自動車で町を走り回り、町にも活気があった。だが、いつしか若者たちは都会に出て行くようになる。ジュンちゃんは、家業の自動車整備工場を継いでいる。この町に止まらなければ生きていけない存在。それは、ミルナーも同じだ。彼らは、町から一歩も出られない"リトル・ボス"だ。

ハジメもコージもいつかこの町を出てやるという思いを抱いている(ハジメは少なくとも実家の農家を継ぎたくない)。どこかで、ジュンちゃんのようにはなりたくないと感じている。"アメグラ"の登場人物であるカートとスティーブも同じ。彼らは、ミルナーを尊敬しているが、自分たちは大学に行くために町を出る側の人間である。

町の衰退は、自動車がもたらした。若者たちをつなぎとめるために、親はクルマを買い与えた。そのクルマが町に繁栄とは逆の効果を与えた。ナンパの車列がロータリーを何週もするように、負のサークルがぐるぐる巡る。

 

シャコタン☆ブギ』は、日本の地方のドメスティックな若者たちの青春を描く。うっすらではあるが映画『アメリカン・グラフィティ』が下敷きにされている。高校生がクルマとバイクに乗っているという設定は、そう、アメグラを元ネタにしているということ。作品掲載は、1995年まで(ヤンマガ)続いていたが、きちんとした結末を描かれないまま途絶えている。どこかできっちりとケリをつけてほしい。それだけの価値のある作品なのだから。

 

そして、これにまつわるイベントやります。↓



<<イベント告知>>
「SUPER DOMMUNE
「八代亜紀からレゲトンまで、カーオーディオとモータリゼーションの音楽史」第2章

出演:速水健朗(編集者ライター)、宇野維正(映画・音楽ジャーナリスト)

 

■2022年7月6日(水曜日)
ENTRANCE ¥2,000(40人限定でPeatix ▶︎
https://peatix.com/event/3291462 )
PLACE 〒150-0042 東京都渋谷区宇田川町15-1 渋谷PARCO9F「SUPER DOMMUNE
15-1 Udagawa-Cho Shibuya-ku Tokyo 150-0042|Shibuya PARCO9F「SUPER DOMMUNE


"八代亜紀からレゲトンまで「カーオーディオとモータリゼーション音楽史」第2章"。前回は、チャック・ベリーからトラック野郎、八代亜紀へと連なるモーターカルチャー前半史をお送りしましたが、今回は、ようやく70年代半ば以降の話に突入します。スプリングスティーン『明日なき暴走』は、何がどう暴走なのか? RCサクセションからWINKまで、カーラジオが歌われる歌謡史、キャロル、ハイティーンブギ、氣志團に至る"ヤンクロック"史、佐野元春とクーペと『アンジェリーナ』、『シャコタン☆ブギ』から『頭文字D』と走り屋漫画の系譜、そして、本イベントの中心的テーマである"チカーノ、ローライダー文化から映画『ワイルドスピード』のつながり"まで。"車と音楽"通史の総決算!!!

 

 

クルマとミュージックの融合史 後編(エアチェック文化からワイルドスピードまで)

この記事は、blogos(2022年5月でサービス終了)に掲載された「カーオーディオの文化史」から加筆したものです。

エアチェックの全盛時代

カセットテープの全盛期とはどのような時代だったのか。1985年の雑誌『FM STATION』(No.18)に、当時の読者の日常生活を取り上げた記事がある。21歳の大学生”石原さん”のお部屋紹介の記事だ。"石原さん"は、3年前(1982年)に15万円のミニコンポを購入。レコードプレイヤーやアンプ、スピーカー、カセットデッキといった音楽再生のために装置をワンセットにしたものがミニコンポだ。"石原さん"は、FM情報誌の番組表を参考に、一週間の録音スケジュールをノートに書き写すのだという。

つまり、エアチェックである。ラジオ番組の音楽部分をカセットテープに録音する。のちに編集し、自分専用のテープを作る。私的複製は、著作権法上でも許諾などなくできる消費行為だ。

当時のエアチェックは、FMラジオの番組表を載せるFM誌の存在とワンセットだ。少なくとも80年代当時は、競合する4誌が各数十万部の単位でした。雑誌には、番組のタイムテーブルが載るだけでなく、番組内でかかる楽曲のタイトルも記載されていた。

"石原さん"は自作のカセット用に「インレタ」でタイトル入りのラベルをつくって、整理しているという。インレタには説明が必要だろう。鉛筆などでこすって貼るタイプのシールで、アルファベット、数字、かたかな、ひらがな、さまざまなフォントのバリエーションもあり、文具屋やレンタルレコード店のテープ売り場などに売っていた。

石原さんの所有カセット総数は250本だという。3年以上、エアチェックを趣味にしていると、このくらいの保有数にはなるのだろう。決して特殊な人々の間の趣味ではなく、当時は中学生から大人まで誰でもやっていた一般的な趣味である。

■ドライブ向けのミュージック

カセットテープ時代のドライブミュージックの定番に山下達郎『FOR YOU』(1982)がある。総売り上げで70万枚を超える大ヒットアルバム。当時は、レコードとカセットテープの両方のメディアでのリリースが行なわれていた。割合は不明だが、カセットテープ版も多く流通していた。自宅にレコードプレイヤーがあっても、自分の部屋にある音楽の再生装置は、ラジカセやウォークマンであったりするケースがある。もちろん、クルマで聞く目的でカセット版を購入するケースも多かったはず。

『FOR YOU』のジャケットは鈴木英人が手がけている。前出のFM雑誌、『FMステーション』の表紙を手がけていたイラストレーター(僕の世代であれば東京書籍の英語教科書『ニューホライズン』の表紙も鈴木だった)。達郎の『FOR YOU』がヒットした前後から『FMステーション』の表紙も「文字の看板が並ぶアメリカ郊外の街角の風景」の方向にシフトし、同時に部数も伸びたという(『FMステーション』とエアチェックの80年代』恩蔵茂、河出文庫)。雑誌の購読層と達郎のファン層が一致したというよりも、時代の空気感といった曖昧な理由だったように思う。1984年に『FMステーション』誌がおこなった読者参加規格のアンケートがそれを裏付けている。

「好きなアーティスト」上位は、1位ビリー・ジョエル、2位デュラン・デュラン、3位ビートルズ、4位、佐野元春、5位カルチャークラブ、6位ホール&オーツ、7位オフコースとなっている。ちなみにサザン16位、ユーミン30位である。達郎は選外だったのだ。

自動車メーカーのCMソングをいくつも担当した山下達郎だが、車やドライブのシチュエーションの楽曲は思い浮かばない(即座に浮かぶのは『BOMBER』くらいか)。一方、ユーミンの曲にドライブはよく登場する(『中央フリーウェイ』『コバルトアワー』『よそゆき顔で』など)。クルマとの立ち位置において対照的な2人。

カセットとアナログレコード。この時代の音楽メディアを比較した際、一番の違いは、DIY要素の有無だ。曲順を編集し、オリジナルのカセットラベルをつくる。誰に見せるわけでもなく、ラベルに趣味を反映させる。エアチェックの時代、音楽のリスニングは、単に一方的な消費行動ではなく、作り手としての側面を持っていたのだ。いつか誰かとのドライブで聞きたい音楽を集め、カセットのラベルを作成する。これをクリエイティブと言わずに何をクリエイティブと呼ぶのだろう。

 

■テープからCDチェンジャーへ

バブル期の映画『私をスキーに連れてって』の冒頭場面、主演・三上博が自宅ガレージで雪山に出かける準備をしている。エンジンをかけ、カセットデッキにテープを突っ込むとユーミンのテーマ曲『スキー天国サーフ天国』が流れ出す。映画公開の1987年は、CDの売り上げがレコードを抜く年。満を侍してビートルズの全アルバムもCD化が開始された年。だが車内空間ではまだカセットテープが主流だった。とはいえ、カーオーディオに全盛時代があるとしたら、この時代だろうか。当時の日本のカーオーディオは、世界中に輸出をしていた時代でもある。

同1987年、FM東京(当時)の日曜14時台の番組に『浅野ゆう子 サウンドクルージング』があった。カーオーディオメーカー富士通テンがスポンサーだった。続く15時台は『ダイヤトーンポップスベスト10』。番組名のダイヤトーンは、三菱電機の車載用オーディオのブランド名である。

後部座席のヘッドレスト後部にこれ見よがしのロゴの入ったスピーカーが配置された4スピーカーの時代。さらにはイコライザー表示機能、コンソールのLEDなど、ビジュアル化、ゴージャス化、悪趣味化の時代を迎える。まさにバブル期のカーオーディオである。

これらの悪趣味全開路線は、パイオニアの「カロッツェリア」(1986〜)がきっかけだっただろうか、クラリオンが「ADDZEST」(1989〜)、富士通テンが「ECLIPSE」(1988〜)など、展開するブランド名は、極めてドメスティック(国内向け)に見えるが、ブランド名はともかく、日本のオーディオメーカーが、海外への輸出の分野でも勝利を収めていた時代。悪環境下の狭いスペースに高性能機械を詰め込むなんて、日本の工業、生産技術の特異中の得意分野だったのだ。

振り返ってみれば、自動車もラジオ(特に初期のトランジスタ)もオーディオも日本の産業が世界に輸出される上でキーとなった領域だ。ハードウェアの日本。一方で、ミュージック、音楽ソフトの領域では、同じようにはいかなかった。CBSを買収したソニーアメリカの音楽市場に本格的な進出を仕掛けるときに、”SEIKO”を売り出した話があったが、その件は割愛。

■過剰な多連装CDチェンジャーの時代

​​カーオーディオ世界の徒花が、CDチェンジャーである。CDチェンジャーは、複数のCDを連装して長時間再生を可能にする装置だ。車載用のCDチェンジャーはマガジンを追加する方式で、6枚、12枚の多連装が可能になっていった。大量のCDを収めるために一部のカーオーディオファンは、ラゲッジ(トランク)に追加マガジンを収納し、50、100枚の多連装を実現。CDチェンジャーのスーパーインフレ時代が一瞬だけ到来した。HDDにMP3データとして取り込めるようになる2000年代になると、CDチェンジャーは消えていった。

カーオーディオの時代は、CDチェンジャーとLEDイルミネーションの時代を頂点に、下降線を辿る。オーディオメーカーは、いつしかカーナビゲーションを主力の製品とするようになった。一応、その経緯にも触れておくと、AV一体型が主流となった転機は、1997年に富士通テンが発売したAV一体型のカーナビだった。カーオーディオの象徴的なブランド名の「ADDZEST」も、いつしかカーナビのブランド名になり、2000年代に消滅。カーオーディオは、カーナビの機能の一部となり、いつしかカーアクセサリーの王様ではなくなっていた。カーナビも日本発の工業製品ではあるが、カーオーディオが持っていたケレン味には欠けたところがある。


■ドライブミュージックからサブスクリプション配信

カーオーディオは、スマートフォン時代からEV時代への転換移行期である現在、再び注目されつつある存在になっている。アップルのCarPlayは、新世代の自動車が採用するインパネのシステムが制御可能な仕様となり、スピードメーターからエアコン操作までをすべて一体化させる方向に向かっている。このCarPlayと対抗するのがAndroid Auto。AppleGoogleら大手プラットフォーム企業が、スマホの次の戦場をこのカーオーディオのユーザーインターフェース部分に移しているのだ。スマホで音楽を聴く(サブスクリプション音楽配信)がベッドルームで聴く音楽と同じになると、"ドライブミュージック"の意味するところは、変化するだろう。

ただクルマの空間には、これからも音楽が流れ続けるのは間違いない。だが、国産のオーディオメーカーの技術革新、人々が新製品を熱狂的に買っていた(オートバックスで)時代、そしてドライブミュージックへの熱気、この3つが強く結びついていたドライブミュージックの時代だけが、過去の彼方に去ってしまったということ。

一方、ミニバンに大量のウーファー(重低音スピーカー)を積み込んだり、ディスプレーを車内に何個も並べたりというカーカスタマイズの文化は、一部の人の趣味としては生き続けている。カーオーディオ専門雑誌の『カーオーディオマガジン』(芸文社、1997年創刊)、さらにその兄弟誌でアメリカンローライダー、ピックアップトラックの改造などの専門誌『カスタムCAR』(芸文社、1978年創刊)などは継続して刊行中。

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最後に触れておきたいのは、2000年代以降に世界的にブレイクしたレゲトンという音楽ジャンルだ。ラティーノの自動車改造=ローライダー文化と切り離せない。そのアンセムであるダディ・ヤンキー『Gasolina』(2004)は、ガソリンを消費する車を女性になぞらえ(擬人化し)たもの。自動車愛とテクノロジー信仰とアメリカとの距離、いろいろなものが混ざっている。

 

 

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シャコタン★ブギ(1) (ヤングマガジンコミックス)

 

ちなみにラテンアメリカ的なローライダー文化、ラップミュージック、レゲトンと日本の改造車文化がミックスされた映画『ワイルドスピード』シリーズが、ごく一部(故人であるポール・ウォーカーが演じるブライアン・オコナー)を抜かせば、彼らのグループ(ファミリー的)は、ブラック系やヒスパニック系らは、カソリックの信仰と改造車によるレースを同列に信仰するノマド的な人々である。改造車で最も使われるのは日本車である。

 

"アメリカの文化周辺国(もちろん日本も含むし、自虐も込めていっている)"は、ロックンロールやモーターカルチャーの影響を受け、独自のローカライズ、そこにともなうズレを内包しながら、エスニシティー(民族性)を伴う文化を生み出している。

 

20世紀は、自動車の世紀であり、ポップミュージックの世紀でもある。その両者が、1930年代の車載用ラジオ登場をきっかけにマリアージュを果たすと、スピード、騒音と融合した音楽が生まれ、さらには、工業化による労働者階級の富裕化、移動の自由の拡大、経済発展などもさまざまに混ざり合った。おそらく、ロックンロールとは、モータリゼーションが生み出した文化的側面の総称なのだ。

 

 

 

クルマとミュージックの融合史 前編(カーラジオ誕生からクラリオンガール)

この記事は、blogos(2022年5月でサービス終了)に掲載された「カーオーディオの文化史」から加筆したものです。

 

■もうひとつの歴史としての"車内音楽史"

かつての若者たちは、車を所有したがった。ひとつに恋人とのデートという目的があり、そのムードを盛り上げる目的として音楽が存在したのだ。

車内リスニング音楽は、いまだ通史として語られることのない、"もうひとつのポピュラー音楽"である。例えば、八代亜紀から工藤静香マルシアへと受け継がれる一連のディーヴァたちの系譜がある。音楽の分野とは無縁。だが、長距離トラックのドライバーたちに聞かれてきた音楽としての共通性はある。長距離輸送が本格化した時代に、ラジオ(参照1)やカセットテープ(または8トラカセット)と結びついて生まれたドメスティックな文化については、その産業やメディアとの結びつきを踏まえることなく、分析は不可能だ。しかも、カーラジオ、カーオーディオの普及が大前提となるが、そこへの分析は、十分にはされていない。

 

【参照1 トラックメーカーが協賛していたラジオ番組】

  1. いすゞ歌うヘッドライト〜コックピットのあなたへ〜』(TBSラジオ系 1974〜2001年)
  2. 『日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲』(文化放送 1968〜2021)

 

 

■カーとラジオはいかに融合したのか

「Car radio 流れる せつなすぎるバラードが 友だちのライン こわしたの」*1
*1(日本語歌詞、及川眠子。オリジナルはカイリー・ミノーグ『Turn It Into Love』だが歌詞の中身は無関係)」

Winkの『愛が止まらない』の冒頭歌詞。この8小節で、そこが車内であること、音楽が流れていること、さらには恋愛がはじまろうとしている瞬間であることが示される。「カーラジオ」だけでもかなりの部分が蔦w流。ポップミュージックの歌詞において、「カーラジオ」の頻出回数は特筆すべきものがある。

クルマもラジオも"メディア"である。

”人間の機能を拡張する機械”がメディアと定義するなら、人間の足の機能を拡張し、移動をアシストする自動機械がクルマ。一方、耳の機能を拡張し、長距離の情報伝達を可能にしたのがラジオである。

このまったく別個のメディアは、19世紀に成立し、20世紀に発展。そして、1930年代のアメリカで、カーラジオとして融合した。"カー"と"ラジオ"のマリアージュがもたらした影響、効用について、われら日本人、いや人類はまだ、ぼんやりとしか認識してない。

■カーラジオからカセットテープへ

国内のカーオーディオの歴史は、1951年に発売された帝国電波なる新興の企業が日野ルノーの乗用車に標準搭載用に開発した「ル・パリジャン」という小型ラジオに始まっている。「日本初の純正カーラジオ」。当時はまだ国産の自動車メーカーが、自国の技術で丸ごと一台の自動車を生産できるようになるか、ならないか瀬戸際の時代。カーラジオも、まだハイグレードな車種にのみに搭載されるものだった。そしえt、1960年代になると、家庭用テレビが一般に普及し始め、お茶の間のメディアの主力の座はテレビに代わる。ラジオにとっても、転換期。ラジオは、主戦場をお茶の間からマイカーや、若者の個室に移行させることになる。

ドライブ、デート、車内音楽という3つの要素が本格的に結びついた時期は、大衆車が普及し、安価となったカーオーディオが登場する1970年代前半のこと。

日本では恋愛結婚の件数がお見合い結婚の件数を抜いた時期と重なっている。カーオーディオの普及によって車内空間と音楽は切り離せないものとなった。言い換えると、"自由恋愛"が発生するために必要な舞台装置。家と家の結婚から個人と個人の結婚へ。かつては、家父長制のもとで育まれるべきものだった恋愛も、個人の車内空間で行われるものへと変化するのだ。

国産カーラジオメーカーの帝国電波は、60年代になるとカセットテープを使ったカーオーディオの販売を始める。当初は、カートリッジ式の8トラカセットが車載オーディオの主役に躍り出る可能性もあった。扱いやすさ、頑丈さ、値段の安さ、音質という優位があった"8トラ"は、元々、カーステレオでの利用を想定されて開発されたものだ。エンドレス再生の仕様もクルマ向けだった。だが、一方で早送りや巻き戻しの機能がないという弱点を抱えていた。8トラは、のちに業務用カラオケ用として定着するが、カーオーディオの世界ではスタンダードの座におさまることはなかった。

現在もよく知られるカセットテープ(コンパクトカセット)は、1964年にオランダのフィリップス社が商品として発売し、のちに技術情報を無償公開されたことで普及する方式。一旦は廃れかけたが、近年、世界的に復活を遂げている。

当初、音質が音楽向きでないとされていたコンパクトカセットだが、日本のメーカーの参入もあり、録音時間、音質、耐久性、価格面の改良が進む。1970年代にレコードやラジオの音を手軽に複製できる装置として普及。このカセットテープの普及は、ティーンエイジャーと音楽の間を取り持った。つまり、限られたおこづかいのなかで、多くの音楽に触れる機会、それを増やすきっかけとなったのだ。

カーラジオは、個人の空間に公共的なラジオ放送を流すための装置だった。だがカセットテープの時代になって、個人的趣味としての空間の要素がつよくなる。

クラリオンガールの時代

かつてのグラビアアイドルの時代に活躍した”クラリオンガール”たちを覚えているだろうか。かとうれいこ大河内志保立河宜子原千晶といった平成初期のグラビアアイドルたちは、皆クラリオンキャンペーンガールの出身。クラリオンは、彼女たちの存在によって知名度が上がったわけだが、このクラリオンの1970年の社名変更以前の社名は帝国電波、つまり先ほどまでカーラジオや8トラカセットのメーカーとして紹介してきた会社である。

1975年にグランプリを受賞した初代はクラリオンガールがアグネス・ラムだった。彼女は、グラビアアイドルの元祖と呼ばれる存在。そして、その後も、1980年代に烏丸せつこ宮崎ますみ蓮舫らがクラリオンキャンペーンガールの出身者だ。どの名前にぴんとくるかは世代によって(もしくは支持政党によって)違うかもしれない。グラビアアイドルの登竜門として知られるコンテストが、カーオーディオメーカーによって主催されていた。

ちなみに、クラリオンのビジネスは、1990年代後半を機に、カーオーディオからカーナビゲーションメーカーへと移行していった。カーナビの音声ガイドにおいて「クラリオンガールによる彼女調」の音声ガイドが売りになった(1996年『モノ・マガジン』1996年7−2号)。

なぜ、カーオーディオ、カーナビのメーカーが、長きに渡り、グラビアアイドルのオーディションを主催していたか。明言されたわけではないが、明白に、ドライブで隣に乗せたい相手をイメージして選ばれるものだったのだ。このことは、クルマとデートと音楽の関係を考える上で、外せない要素である。2000年代に一旦、クラリオンガールのコンテストは「メディアデビューを目標とし音楽を愛する女性」という名目に変更される。そして、終了は2006年。クラリオンが会社として他社に吸収、これを機とした廃止である。

(後編へ続く)

 

歴史改変SFとしての安室奈美恵の引退宣言

 

 安室奈美恵の引退という現実の出来事について考える前に、タイムスリップというSF的な非現実について考えてみたい。
 人類絶滅を目前に控えた未来から現代の世界に送り込まれてきた時空を超えたエージェントTー800。アーノルド・シュワルツェネッガー演じるアンドロイドの目的は、のちに人類を救うジョン・コナーという少年を守ることだった。過去の出来事の改変。映画『ターミネーター2』のプロットである。


 もし、今の日本の「国難」を救うために、過去のどこかの時代にエージェントを送り込めるとしたら、日本の過去のどの瞬間を選ぶべきだろう?


 現代の日本が抱える難題とは、「少子高齢化問題」である。団塊ジュニア世代が適齢期を迎えた時代に子どもを産み控えしたのが問題だった。となればタイムマシンを送る先の時代は、20年前である。

 その時代に誰か、価値観を大きく変える力を持つ”ジョン・コナー”的な人物、当時の日本人の意識を変えるロールモデルになるべき人物を送り込めばいい。ロールモデルとは、人びとが無意識に模倣してしまう相手のこと。つまり、当時の人びとが結婚・出産に憧れるような事件を起こせばいいのだ。


 何が言いたいのか、わかっていただけただろうか。

 安室奈美恵が突然、衝撃的なSAMとの結婚・妊娠を発表したのは、1997年10月のこと。彼女は歌手としての休業を宣言する。この結婚は「できちゃった婚」だった。安室が出産した1998年の時点での「でき婚」率(結婚前妊娠率)は、20%弱。その後急上昇。ついに、2005年には25%となった。現代では、4組に1組の夫婦が「でき婚」である。
 安室奈美恵の結婚以降、「でき婚」は「あり」と社会通念が変わった。因果は明確ではないが、この直後に日本の少子化を示す数値は一定程度変化もした。

結婚、出産の順番が正しい家族の在り方な訳はない。どっちが先でも、籍があってもなくても同じように子育てができる社会の方がいい。あの時代、安室がいたことによって日本の社会は、一歩前に進めたのである。


 そう、安室奈美恵は、未来の世界から、日本の人口問題を解決するため、時間を超えて送り込まれたターミネーターである……。


 というのはもちろん与太話なのだが、それくらいの衝撃は、あの引退宣言にはあったのではないか。実際のところ彼女の宣言が「私はタイムトラベラー。未来の世界に帰ります」というものだったとしても、驚きの程度は引退のそれと変わらない。

「恋愛禁止」がルール化されたアイドルグループがいる時代よりも、90年代の方が進んでいた。1人の歌手が、社会通念を変える。そうあることではない。ミスチルやB'Zだって社会を変えてはいない。もちろんゆずやコブクロも。でも安室奈美恵は変えたのだ。


 ただし、残念なことに時間旅行者は、重大なタイムパラドックスを引きおこす前に未来に戻らなくてはならないのだ。
 安室奈美恵の引退とは、重大なタイムパラドックスを回避するためのもの。未来に帰るまでの猶予は1年間である。

初出『UOMO』2017年連載コラム(一部書き換えている)

 

 


 
 

速水健朗プロフィール

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速水健朗(はやみずけんろう)(@gotanda6) | Twitter

職業、ライター。

 


主なジャンルは、都市論、メディア論、書評など。ラジオパーソナリティやコメンテーターなど。ポッドキャスト『すべてのニュースは賞味期限切れである』配信中。

https://anchor.fm/kigengire

 

<番組終了>TOKYO FMTOKYO SLOW NEWS』(月〜木 夜20:00〜21:00)パーソナリティ。<終了>

 

www.pen-online.jp

 

 

 

 

1995年 (ちくま新書)

1995年 (ちくま新書)

 
東京どこに住む? 住所格差と人生格差 (朝日新書)

東京どこに住む? 住所格差と人生格差 (朝日新書)

  • 作者:速水健朗
  • 発売日: 2016/05/13
  • メディア: 新書
 
東京β: 更新され続ける都市の物語 (単行本)

東京β: 更新され続ける都市の物語 (単行本)

  • 作者:速水 健朗
  • 発売日: 2016/04/26
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

「モヒート」と「レクサス」から考える高度資本主義社会 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

 春樹作品で取り上げられたクラシックの作品が、AMAZONの在庫やCDショップの店頭から消失し、急遽再発されるなど、春樹初のブームが繰り返している。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。この長編小説で気になった2つの要素が、「モヒート」と「レクサス」である。

 『色彩を〜』の主人公・多崎つくると木元沙羅が東京・恵比寿のバーでデートするときに飲んでいるのは、「薄いハイボール」と「モヒート」である。モヒートが日本でブームになったのは、2011年。この年、サッポロビールと業務提携したラム酒メーカーのバカルディ・ジャパンは、ラムを使ったカクテルのモヒートを流行させるというアイデアに目を付けた。バーやレストランなどでモヒートをメニューに加える提案、レシピの提供などを行い、その普及のためのPRを展開した。

 先行事例に2008年にサントリーが「サントリー角瓶」の拡販のためのハイボールブームがある。サントリーは、テレビCMだけでなく、ソーシャルメディアを活用、それ外にも契約店のメニューにハイボールを第第的に展開することで、一旦は完全に消えたと思われたハイボールを復活させたのだ。バカルディのモヒートキャンペーンも同様に成功した。それが2011年のこと。

 この小説の主人公たちが生きるのは、「最も巨額の資本を投資するものが最も有効な情報を手にし、最も有効な利益を得る」というルールに支えられた「高度資本主義社会」である。資本投下と回収によるシステム。ゴージャスなホテルや国際的な高級コールガール組織からデュラン・デュランまでが同じシステムが運営され、なんでも経費で落ちる社会のこと。そんな「高度資本主義社会」は春樹用語。出典は、バブル時代以前の日本を舞台にした1988年刊行の小説『ダンス・ダンス・ダンス』である。

『色彩を〜』の主人公つくると沙羅が「薄いハイボール」と「モヒート」を飲む。彼らは、酒類メーカーの広告戦略にまんまと乗っている。「最も巨額の資本を投資するものが最も有効な情報を手にし、最も有効な利益を得る」という春樹が定義した社会をまさに実行する主人公たち。ちなみに『ダンス〜』では、主人公の「僕」や「ユミヨシさん」は札幌で「ウォッカソーダ」や「ブラディー・マリー」を飲み、ハワイで「マティーニ」や「ピナコラーダ」や「ジン・トニック」を飲んでいた。春樹作品にお酒はつきものである。

ただし、1988年当時の「高度資本主義社会」の定義のある部分が間違いだったことを現代のぼくらは気がついている。

 この小説では「この巨大な蟻塚のような高度資本主義社会にあっては仕事をみつけるのはさほど困難な作業ではない」と言い切られていたが、それが高度資本主義社会であるなら、日本社会は明らかに後退した。この小説の主人公は、軽めの文章を大量生産する文筆業者だ。彼は、自分の仕事のことを「文化的雪かき」と皮肉を込めて呼ぶ。だが現代の物書きは、数ヶ月働いただけで1ヶ月仕事をしないで遊んで暮らせることはない。それともっとも重要なのは、何でも経費で落ちたのは、資本主義が高度化したからではなかった。当時は単に景気がよかったのだ。

 とはいえ、消費社会化の段階変化をシニカルに書くことについて、村上春樹よりもうまい作家はそうはいない(双璧は、ある時期までの村上龍だった)。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』においては、「レクサス」という文化記号がその役割を果たしている。

 本作の登場人物「アオ」こと青海悦夫は、名古屋でレクサスの販売主任の仕事をしている。レクサスは、元々トヨタが1988年(まさに『ダンス〜』が書かれた年)に海外向けラグジュアリークラスカーであるセルシオを輸出する際に用いたブランド名である。レクサスにおいては、トヨタの名が前面に出ていない。の意図的にそうしている。そして、そのレクサスがBMWメルセデスに比べると値頃で高性能という評判が定着すると、今度は逆輸入という形で、日本市場に投入された。日本でレクサスの販売が始まったのは、2005年のこと。

 アオの勤めるショールームを訪ねたつくるは、いろいろと会話をして最後に「レクサス」の言葉の意味を尋ねる。「よく人にきかれるんだが、意味はまったくない。ただの造語だよ。ニューヨークの広告代理店がトヨタの依頼を受けてこしらえたんだ。いかにも高級そうで、意味ありげで、響きの良い言葉ということで」
 経済コラムニストのトーマス・フリードマンには『レクサスとオリーブの木』というグローバリゼーションを主題にした著作がある。この中で、彼はレクサスを「冷戦システムに取って代わる国際システム」=グローバル化の象徴と見なしている。フリードマンが見たのは、300台を超えるロボットが1日300台のレクサスを製造する工場だ。そこで、「材料を運んでフロアを走り回るトラックさせもロボット化されていて、進路に人間の存在を感知すると『ビー、ビー、ビー』と警告音を発する」という光景が描写される。最先端の技術が集結した工場では、人間が邪魔者とされるのだ。そんなシステムの象徴として「レクサス」が登場する。フリードマンは、レクサスは「わたしたちがより高い生活水準を追求するのに不可欠な、急速に成長を遂げる世界市場、金融機関、コンピュータ技術のすべてを象徴している」と言う。「レクサス」はひとことでいうと「高度資本主義社会っぽい」のである。

 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の中にもいくつかのクルマが登場する。俳優の五反田くんは、海に沈めても保険が下りるから何の問題もないマセラティに乗っていた。その対極に置かれるのは、主人公の愛車で、目立たない実用的なスバルだった。一九八〇年代までの日本車の特徴と言えば、故障知らずで低燃費で低価格。つまりは機能的なクルマの代名詞が日本車だったのだ。春樹流に言えば「親密な感じがする」スバルに代表するのクルマが日本車である(その後の『騎士団長殺し』ではスバル・フォレスターが邪悪案存在として描かれてしまうのだけど)。

 トヨタがつくるレクサスは親密な感じではない。レクサスのブランディング担当者によれば「商品に付帯する機能とは『別な価値』をお客様に提供していること」(http://www.jsae.or.jp/~dat1/mr/motor20/mr20042013.pdf)だという。現代においては、機能一辺倒の自動車を作っているだけではコモディティ化(日用品化)し、人件費の安い国の自動車メーカーに負けてしまう。「やれやれ」。これも「高度資本主義社会」の一つの形態である。

 モヒート話に戻る。この作品においてモヒートはさして重要ではないが、少なくともこの物語の年代特定を助けてくれている。この物語の現在の年代をモヒートブームの2011年と推理する。このモヒート年代測定に従うと、舞台が翌年の2012年の可能性はあっても、2010年という可能性は低い。仮に2011年を基準点にするなら、多崎つくるの生年は、1974年度になる。そして彼が仲間からひどい仕打ちを受け、人生に変化が生じた大学2年生の夏休みは、1995年の可能性が高い。

 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、2011年の現在から、自身の身に起こった出来事の真相を知るために、1995年への「巡礼」を行うというもの。言うまでもないが、この2つの年とは、阪神淡路大震災東日本大震災の二つの出来事が起きた年。19世紀の初頭の怪奇小説、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、厳密に1892から数年の出来事を、ヨーロッパ各地を舞台にして描きながら、であるなら書かれていて然るべき当時の彼の地の話題を一身に集めていたフランス革命、及びその後のナポレオン戦争に一切触れない。不自然なまでにそれを避けたのは、それらが著者にとっての最大の関心事だからだ。メアリー・シェリーは、ヨーロッパで封建制度が次々崩壊していくという事態を、寓話として小説にしたのだ。

 震災についてはスルーしながら、2011年と1995年年を描く。著者の関心事にかんしては指摘するまでもないだろう。そして、もうひとつ。本作は、村上春樹作品の中では珍しく、団塊ジュニア世代が主人公だ。終盤近くには、主人公が新宿駅を訪れ、オウム真理教による地下鉄サリン事件について回想する場面がある。団塊世代にとっての学生運動(及び、反体制的な心情)と、団塊ジュニア世代にとってのオウム真理教事件。どちらも「高度資本主義社会」を受け入れきれない人々による反発と敗北だった。村上春樹が直接描くのではなく、ずっと関心を持ち続けてきたことは、変わっていない。